2023年2月 K.T
拙論に対し、2023年にK.T氏からいただいていたコメントを大幅に遅れましたが、本人の了解をいただき掲載いたします。
1. 商品と貨幣の発生関係について
「貨幣が継続的に使用されるようになると、やがて交換は等価交換である本質を変えないまま、交換以前からあらかじめ参照され、貨幣獲得のためにモノが 生産されるようになる。たとえばブドウ酒は、銀貨2枚と交換される交換価値 を持つモノとして生産される。商品の発生である。商品はそれぞれ価格を持 つ」
交換されるべき生産物はすでに商品ではないのか。多様な生産物の交換の中か ら貨幣が発生するということは、商品の存在が前提となって初めて貨幣が発生するというべきではないのか。
貨幣の成立を前提とした商品論では、価値実体が具体的有用労働とは区別され る抽象的人間労働であることの論証が不可能になるのではないだろうか。もっ とも等価性の根拠として労働時間をノードさんも冒頭部分で挙げられている。し かし、その労働は私が読む限りでは具体的有用労働として語られており、抽象 的人間労働としてではない。もっともノードさんが抽象的人間労働を概念として 否定するのならば、話は別である。それはそれとして正当なものかもしれな い。原始的な交換の場面ではそのようなことも考えられるからだ。
しかし、それでは貨幣がすべての商品の価値尺度となる論理的根拠が失われな いだろうか。さまざまに異なった有用労働が一つの一般的な労働へと抽象され ることによって、価値表現の統一性が成立しているのではないだろうか。異種 の諸労働の統一性は、抽象的人間労働して把握されない限り、論理的には論証 できないのではないか。その統一性を特殊な一商品である金が担っていること が貨幣の秘密であり、また、貨幣の謎の根拠ではないのか。
マルクスはその論証を、ある商品がそれ以外の他のあらゆる商品と交換されて いるという事実から論証している。価値形態論で言えば第二形態が示している 交換関係から論証している。貨幣を前提として商品を語る場合、価値実体が有 用労働の抽象としての抽象的人間労働であることが論証しえないのではない か。
マルクスの価値形態論は、全面的な商品生産社会としての資本主義社会の構造 =対象の論理を対象にしたものであり、貨幣金もそもそも金商品であることか ら、諸商品の交換関係から論を起こしている。言い換えると貨幣商品はどの商 品でも論理的には構わない、という前提から出発していると理解できる。従っ て、第一形態は単なる物々交換ではなく、商品としての労働生産物の交換関係 を現わしていると理解されるべきだろう。この点で私とノードさんとの見解は対 立している。でも、ノードさん自身も貨幣を特別な商品と規定している。やはり商品が貨幣に先行しているのではないか。貨幣が発生すると商品化が拡大するという点には同意する。
2. 貨幣先行説の論理的弱点
「上にあげたマルクスの価値形態でいえば、モノとモノとの等価交換のプロセ スで自然発生的に一般的価値形態(第三形態)が生まれ、やがて例でいえば20 エレルのリンネルがその現実的姿として貨幣(現行版資本論の第四形態)に化身する。最終的には合理的な交換の必要性から、貨幣としての20エレルのリン ネルは、1エレルのリンネルとして計算されることになるだろう。そしてさらに リンネルは、耐久性、蓄蔵性に優れた銀や金などの希少性鉱物に変化する」
貨幣の存在を前提とする場合、貨幣とは何か、という問題は機能的にのみ把握 されてしまい、そもそも貨幣とは何か=貨幣の概念的把握の道が閉ざされてし まうのではないだろうか。上の引用文からは「合理的な交換の必要性」から貨 幣を導き出しているように読むことができる。
また、モノとモノとの交換とされる場合、価値形態の両極の区別が消滅し、リ ンネルによる価値表現だというリンネルの主体性も消えてしまうことにより、 価値表現とは何か、という点も解明されないことにならないだろうか。
もちろん、貨幣の歴史的発生については物々交換から出発しているのは間違い ない。その点では「貨幣の発生。これは等価交換が繰り返される中で自然発生 的に生まれたものである」という指摘は正しいと思う。しかし、繰り返され る等価交換とは、1.で述べたように、商品同士の交換を意味するのではない だろうか。また、その自然発生性とは何を意味するのだろうか。この点が価値形態論から交換過程論で解明されていると考えられないだろうか。自然発生性とはこの場合、無意識的な共同行為を意味するものと理解されないだろうか。 価値形態論は歴史的展開ではなく論理的展開であると私は理解しているが、論理的展開とは事柄の本質の展開であるから、それは同時に歴史的展開を規制し てもいると考えられないだろうか。その意味では私は論理≒歴史説の立場であ る。=ではなく、≒としたのは、当然のことながら歴史的展開は論理的展開そ のままではなく、さまざまな歴史的事情に左右されている、ということを意味 している。歴史とは無関係な論理はないというのが史的唯物論の基本的な立場 だと私は理解しているのだ。 このような理解をノードさんは弁証法が一種の形而上学だと批判しているのかも しれない。
3. 無意識的な共同行為について
「モノである商品は貨幣を前提にし、生産はつねに貨幣と需要を参照しながら実行され、価格が設定されるが、これは貨幣に導かれたモノの所有者たちの無意識的な共同行為として行われる』
価格の設定は商品所有者の意識的行為である。価格をつけるという行為によっ て貨幣が日々生成されているという事態が、商品所有者には意識されていない 無意識的な共同行為なのではないのか。
「榎原氏は、モノの所有者が貨幣と需要を参照しつつそれに価格をつけて商品化 し、市場に参入する行為を「無意識的な共同行為」ととらえている」。この点では榎原さんの叙述は上にのべたような意味で私は理解している。すなわち、価格設定、市場参入自体は意識的行為であるが、それが貨幣関係の再生産となってい ることは意識されていない、と私は理解している。
4. 物象化と物神性の関係
「貨幣に媒介される商品交換は、人がモノとモノを交換する社会関係から生ま れ、この社会関係は商品交換の都度日々反復されているのだが、貨幣の物神化 に伴い物象化され、人には直接的に見えなくなる。」 「社会関係の物象化とは、モノをめぐる人と人との関係(交換関係)が、貨幣 と商品が独立してとり結ぶ関係(商品世界)から切り離され、商品世界がそれ独自のコードで動いているように見えてしまう事態をさす」
「社会関係の物象化」とは、人々の社会的規定性が直接的には成立せず、物象 同士の関係において初めて成立する事態を指すのではないか。つまり、人々の 社会的関係が物象同士の関係として成立している事態を意味しているのではないか。このような物象化によって、「商品世界がそれ独自のコードで動いてい るように見えてしまう事態」が発生するが、それが物神性であり物神化ではな いのか。
5. 貨幣の王的性格
貨幣は諸商品の論理に基づき、商品所有者の無意識的共同行為によって成立す る。主体は商品あるいは商品所有者であるが、貨幣がいったん成立すると貨幣 なしでは交換が成立しないがゆえに、貨幣が商品所有者を支配するという転倒 した事態が成立する。貨幣の王的性格については同意する。
6. 貨幣の機能とは第一に価値尺度機能であること
「榎原氏は「商品交換によって日々貨幣が生成される」とも書いている。これはど ういうことか。商品は貨幣と交換されるのであるから、交換のつど、貨幣は交 換の対価および決済手段としてのポジションが再確認されていくという意味だ ろうか」
貨幣とは商品の一般的価値形態であり、私的生産物である商品がとる社会的形 態である。価格をつけるということは、商品にそのような形態を与えるといことであり、それは貨幣の価値尺度機能を示している。貨幣は価値尺度機能を果たすがゆえに、価値そのものの体現物となるのではないか。対価という表現 はその点を曖昧にしてしまう気がするが、どうだろうか。
7. 物象化と疎外
私は物象化を疎外という抽象的観念をより歴史的社会的関係に即して解明した具体的な概念として理解している。ノードさんが述べられているように、一般的 に理解されている疎外論はある種の理想状態を前提的に観念しているのである が、その理想状態自体が歴史的観念である。つまり、人格的隷属関係から物象的依存関係にもとづく人格的独立への転化という商品生産社会の論理の観念的 反映である。その意味では単なる疎外論は、イデオロギーと化してしまう。 もっとも、資本による賃労働の支配、あるいは神のもとにひれ伏すという疎外概念が無意味であるとは、私は思わない。人間以外のモノによって支配される状況を具体的に解明する限りでは、疎外論も有効ではないか。その有効性はあ る種の倫理を要請するものであり、実践に向かう動機を形成するという点から みても、有効ではないだろうか。ノードさんも「資本主義の傾向を分析し、帰納 的に一定の展望を持つこととは矛盾しない」と述べているので、この点につ いては同意してくれるのではないだろうか。 宗教的疎外についていえば、人間の類的本質を前提としての批判となるが、そ の際留意すべきは、先にも述べたように、そのような本質は超歴史的なもので はなく、歴史的に形成され開花してきたものだということであろう。マルクス も『経済学哲学草稿』で「五感の形成は世界史の産物である。」とのべてい る。
8. 政治革命と社革革命の関係について
政治革命のみでは社会は変えられない、という点については、私とノードさんで は共通理解となっていると思われる。ただ、歴史的経験からして政治革命が先行した場合、物質的基盤が形成されていないがゆえに、革命は失敗してしまう 可能性が高いと思う。コミューン、ソビエトなどの組織が、「政治組織として のみとらえられ、協同組合組織としては扱われなかったことだろう」という のもそのような理由によると思える。もっともパリ・コミューンは必ずしも政治的に限定されていなかったような気もするが。 ユーゴスラヴィア研究者の岩田昌征氏は、「党デザイン型社会主義」と名付け て、その限界を指摘している。政治革命先行説は、前衛党がデザインした理想 を上から押しつけて実現しようというものであり、歴史的に破産しているとい うものだ。 榎原さんが述べられている点で、興味深いのは、権力は転がり込んでくるものだ、という点である。これを私なりに理解して咀嚼すると次のようになる。協同組合的あるいは協同主義的組織が全国的な規模である程度拡大することは、 人々の自治の領域の拡大を意味する。それは一種の政治革命であると言えるの ではないだろうか。その自治の領域が全面的に展開されるためには、法的制度 的な裏付けが必要となるかもしれないが、制度的裏付けを与えることが一種の 政治革命として理解できるのではないだろうか。必ずしも国家権力を奪取する ことだけが政治革命ではないような気がする。
9. AIについて
無人化によって私企業、私有財産は必然性がなくなるというのは、非常に興味 深い指摘である。私はこの点について詰めて考えたことがないが、今後検討す べき課題だと思わされた。ただ、なぜ必然性がなくなるのか、という点が理解 しきれないので、もう少し詳しく展開していただければ助かります。