デリダは、言語、法とならんで、国家も、原初的に「他者」を外部に暴力的に排除することで成り立つものであり、その排除はたえず反復されているととらえる。同時に、排除は決して完全に成功することはないと主張する。なぜなら「他者」を排除すべき外部は、そもそも内部における対立が転写されたものに過ぎず、内部と外部の境界線をひくことは不可能だからだと。かくて「他者」はたえず密かに内部へと回帰し、あたかもそれ自体で自足しているかのように見える内部を侵食し、汚染することになる。

この密かに回帰する「他者」こそ、デリダの幽霊なのだ。デリダは、幽霊とは「不可能なもの」を体験することだという。というのは、国家にあって、原初的に、そしてたえず反復的に排除される「他者」は、国家にとって存在しないもの、接触が不可能なものとされ、隠蔽されるからであり、「他者」が幽霊として回帰することはその隠蔽が暴かれることに他ならず、それはそのまま国家の危機を招き寄せるからである。したがって、国家の危機とは、不可能が可能になる可能性ということになる。

そして、もし国家にとって「他者」を排除しつくすことが不可能だとすれば、「他者」とはむしろ国家が存在するための条件だということになる。「他者」が内部に回帰すること、すなわち国家の危機は、つねに国家に内在していることになる。

デリダは幽霊をこう語る。

「私は長いあいだ、幽霊について、伝承と諸世代について、幽霊の諸世代について、いいかえれば、私たちに対しても、私たちのなかでも外でも、現前したり現前的=現在的に生きてないある種の他者たちについて語る準備をしているが、それは正義の名においてである。…すでに死んでしまったか、あるいはまだ生まれていないかであれ、もはや、あるいはまだ、現にそこに、現前的=現在的に生きて存在するのではない、そうした他者たちの尊重を原理として認めないようなどんな倫理も、革命的であれ非革命的であれどんな政治も、可能であるとも、考えられるとも、正しいと思われない以上、幽霊について、いやそれどころか、幽霊に対して、幽霊とともに語らなければならないのだ。あらゆる生ける現在を越えて、生ける現在を脱臼させる(The time is out of joint)ものにおいて、まだ生まれていなかったり、すでに死んでしまった者たちー戦争、政治的その他の暴力、民族主義的、人種主義的、植民地主義的、性差別主義的その他の虐殺、資本主義的帝国主義やあらゆる形式の全体主義的の抑圧の犠牲者たちや、そうではない犠牲者たちーの幽霊の前で、なんらかの責任を負うという原理なしには、どんな正義も…ありえないし、考えられないように思われる」
(『マルクスの亡霊たち』1993)

デリダの幽霊は、私たちが革命主体として形象化してきたゾンビとほぼ重なっている(『ゾンビ革命的』)。ゾンビもまた国家から外部へ排除され、殺害され、存在の痕跡を消去されながら、「生ける死者」として国家の内部に回帰する存在だからだ。そして「生ける死者」という形容矛盾が端的に示すように、まさに「不可能なもの」である。

「ゾンビは生ける死者であり、恐るべきものとして社会から排除されるが、人びとにとって外部の敵ではない。人はゾンビに噛まれ、感染するとゾンビに転化(変身)してしまうのであり、だからゾンビは外部的でありながら、同時に内部的な存在なのだ。つまりゾンビによって生と死が反転する。「Living Dead」と呼ばれたりするのは、ゾンビが生と死の境界を自由に往還する存在であることを指し示している」
(『ゾンビ革命的』2015)

私たちはこれまで正義をあいまいなまま、それでも不可避な言葉として選択してきたが、デリダによって幽霊と正義が連結していることを学んだ。ゾンビもまた正義を希求する存在に他ならない。国家権力の前に、身体以外になんの武器もなく立ち尽くす、アガンベンの「剥き出しの生」もまた幽霊であり、ゾンビであり、正義を希求する存在である。

4.03/2017