国民という法的カテゴリーでは、あらかじめ国民でない者が排除されている。言い換えれば、国民は、国民でない者を排除することで、その同一性が担保されている。後者は、排除されることで、国民には見えない(invisible)存在となっている。だが、隠されていても、後者がなければ前者も存在しえない。

国民に市民権としての人権が与えられる場合、国民でないものとして排除された者は市民でなく、したがって権利もないとされる。これが排除の政治的効果である。しかし、他方では、無権利の者も一定の(しばしば重要な)社会的、経済的役割を担っている以上、国家に包含されている。近代においても、たとえばアメリカにおける奴隷がそうであった。奴隷は、国家から排除されながら、同時に包含された存在であった。これが、奴隷なくして当時のアメリカ国家はなかったという意味である。

排除されながら、包含されるという関係は、もし国家から排除された、無権利の者が、法の下での平等と自由を求め、排除の壁を打ち破り、国家の内部に入ってくればどういう変化が起るのか?それでも近代国家は成り立つのか?

たとえばアメリカでは内戦であった南北戦争の結果、奴隷制は法的に廃止された。形式上、奴隷であった黒人たちは、アメリカ国家の内部に白人たちと同じ権利を持つ市民として包含されることになった。しかし実際には、今なお黒人の大多数は失業と貧困にあえぎ、負債を背負い、事実上、奴隷的状態に置かれていると言ってもいいだろう。公民権運動から50年近く経過した2014年の今年、ファーガソンで起った警官の黒人青年射殺事件は、そのことを象徴的に示している。事件は、黒人たちが警察権力によって事実上の無権利者として扱われている事実の氷山の一角に過ぎない。インディオの人びとについてもほぼ同様である。彼らの場合は、リザベーションという収容所に柔らかく囲い込まれてさえいる。

つまりアメリカでは、一定の人びとを排除し、かつ包含する関係は、黒人もインディオもすでにアメリカ市民であるという法の建前の裏側でなお存続しているのだ。つまり、近代国家においても、たとえ法によって排除が否認され、その結果見えにくくなっているとしても、排除と包含の関係を維持することは不可欠だということになる。女性もまた今なお、国家から排除されつつ包含されている存在である。

だとすると、もし実体として排除された人びとが全面的に国家の内部に入り込む、すなわち建前ではなく、実質的な平等と自由を求めるとすれば、いまある国家はそのままでは存続できず、新たな共同体が要請されることになるだろう。

だが、ここで確認しておくべきなのは、国民、市民、人権という法的カテゴリーが、すべて「国家」を前提にしたものであるということである。だから、国家が危機に陥ると、これらがすべてが揺らぎ、国民や市民とそうでない者、権利と無権利者の境界があいまいになってくる。だから、危機の時代に国家は強迫的にその再定義をおこなおうとするだろう。かってのナチスが、ユダヤ人をはじめ被差別の人びとを排除しつつ、「ドイツ国民」の定義に執拗にこだわらざるをえなかったのはその証左である。

上にあげたカテゴリーの中で、私たちにとってとりわけ重要なものは人権である。だが、国家がその制限、縮小、一時停止を含めて再定義をおこなおうとする時、私たちが、ただ「人権は国家を超える自然権である以上、国家といえども侵害できない」という論理だけではたしてその再定義を阻止できるかどうかを問わなくてはならないだろう。

近代では、そして現代でもなお、人権は憲法によって保障されている。立憲主義の近代憲法は「人権を守るために、国家に制約を加えるためのもの」とされている。つまり人権は、国家以前に人びとが自然権として保有するものとされている。そして、国家以前に存在する人権の主体である人間の集合体は、憲法制定権力と定義されてきた。

国家が憲法に反して人権を制約したり、剥奪しようとする場合、司法権による「違憲審査」が発動すると憲法内で予想されている。違憲審査で憲法違反であると判断されれば、その行政行為や立法は無効となると。だが、司法も国家機関の一部である以上、いつでも違憲審査が憲法に沿って適切に行使されるかどうかは定かではない(たとえばわが国では、最高裁判所長官は内閣が任命する)。かりに司法がその任務を果たさず、違憲の行為や立法を追認するだけに終わった場合、次の選挙で議員構成を替える以外、私たちには憲法上の手だてを持っていない。

だが、憲法と人権の究極的な守り手は、国家以前に存在する憲法制定権力である以上、たとえ憲法上の手だてがすべてなくなった場合でも、憲法制定権力がその権力を発動させ、人権を守るたたかいが残されている。

もちろん憲法制定権力は、誰もこれと名指しできるものではなく、あらゆる法的形式から自由な存在であり、不定形なものだ。憲法制定権力が発動される局面では、すべての政治的、法的境界があいまいになり、流動しているだろう。これは、上で述べたような「実体として排除された人びとが全面的に国家の内部に入り込み、建前ではなく、実質的な平等と自由を求め、いまある国家がそのままでは存続できない」ような局面である。

言い換えれば、この権力が発動されるとすれば、憲法、人権、そしてより根本的には正義を、国家に対抗しながら、人びとの側から新しく再定義することになる。それが現在のものと同じものになるかどうかは、誰も予測できない。

先に立てた問いに戻れば、国家の人権の再定義に真に対抗するためには、私たちの側の再定義を対置すべきだということになるだろう。たんなる「自然法としての人権だから」と繰り返すのではなく、国家から排除され、事実上無権利状態に置かれたきた人びとの生活と権利を含め、人権の拡張と充実を内容とした、新しい定義(ある哲学者は人権に代えて生命権と言うべきだと主張している)を対置してたたかわなければならないのだ。

ただ、新しい人権の再定義は、人びとのたたかいの中からしか立ち上がってこないだろう。そしてこのたたかいが、国家から排除されたすべての人びととの合流を、本質的な要素とする以上、たんなる護憲運動だけでは、人権を守り抜くことはできないだろう。

2017