2011年3月11日の大震災直後、冷却機能を喪失した福島原発でメルトダウン事故が発生した。事故発生からの数日、当時の菅内閣が一時的にマヒ状態になり、政府からは何のメッセージも出されない状態が続いた。

この時に起こっていたのは、たとえ一時的であれ、国家権力がその作用を停止し、結果、私たちが無権力の真空状態に置かれたということであった。

そして、その時の私たちの感覚は、不安と同時に、清々しさが同居する奇妙なものだったはずだ。だが、類似の体験は、1945年の敗戦直後にも多くの人々が共有していた。この時も、大日本帝国が崩壊し、アメリカ占領軍が統治のかたちを整えるまで、国家権力は一時的に存在せず、人々は真空状態に置かれていたのだ。

この奇妙な感覚は、たんに一時的なエピソードではない。私たちの生と国家の関係の暗部に光を投げかけるものだ。

国家権力が存在しない時の不安と清々しさとは何か。それは、私たちが丸裸になること、私たちの生が公共空間の中に剥き出しになっていることを直感的に捉えた結果、生まれる感覚だろう。

不安は第一に、国家の存在を前提にしたさまざまな機構、制度で保護されてきた生が、突然その拠り所を失い、他者とどう出会えばいいか分からなくなることから来ている。私たちは互いに剥き出しの生として存在しているのであり、もはや「国民」としての属性を失っているからに他ならない。国民でない者同士が構成する公共空間を私たちは知らない。

不安の第二は、私たちが何者でもなくなる結果、国家権力を含め、何人からの暴力に、さらには死の可能性に晒されることから来る。裸の私たちは単独者であり、暴力と死の可能性に対し、自らの身体以外に武器はない。これは、あのホッブスの定義通りの「何人も何人に対して狼になる世界」である。

この不安の性質を考える時、私たちはただちにナチス独裁下のユダヤ人の運命を想起するだろう。彼らは国家によって、市民としての、さらには国民としてのすべての属性を剥ぎ取られ、本来は刑罰にカテゴライズされない予防拘束の対象者として「強制収容所」に閉じ込められ、(もはや何者でもないとされた以上)名ではなく番号で管理された。そして収容所とは死の別名に他ならなかった。

死を前にしながら、いかなる法的保護も、いかなる武器を持てずに佇む裸の単独者たちから放射される圧倒的な無力感。私たちがフィルムやドキュメントでナチス政権下のユダヤ人の運命を回顧するときに感じるのはこのことである。

では、清々しさは?保護者であることを理由に、生自体に何重にも介入していた国家がもはや介入できなくなった結果、この介入=抑圧が解除され、僥倖のように訪れる解放感から来るものととりあえず言えるだろう。だが、私たちの多くは、そこから一歩前に踏み出し、この解放の彼岸に何があるのかを問いただすことはない。その問いは、端的に、国家を前提とする国民としてのすべての属性を失った剥き出しの生そのものとなった私たちが、同様の他者とはたして意味と機能をもった公共空間(共同体)を創造できるのかどうかであり、また可能であるとしても、それはこれまでの国家とどう違っているのかとして立てられていたはずである。

2017