かりに資本主義生産システムが機能不全に陥ったり、さらには瓦解したとしても、国家は自動的に崩壊しない。それどころか、国家の中枢で権力を握っていた者たちは、新しいものであれ、復古的なものであれ、なんらかの生産分配システムを作り上げ、国家秩序を再建しようとするだろう。つまり、国家構成員全体の安全と利益を守るためという名目で、握ってきた権力装置をみずから手放すことはない。

生き残った国家が新たに作り上げる政治経済システムが、構成員の安全と利益を守る保証はない。資本主義生産システムが稼働していた時代よりも圧政的で、全体主義的なものになるかも知れない。

農奴制を残し、資本主義生産がはじまったばかりのロシア帝制を倒し、国家権力を握ったボルシェビキ党は、ツアー時代をはるかに凌ぐ全体主義国家を作り上げ、粛清とラーゲリで2,000万人以上を殺戮した。後発であったが急速に資本主義生産システムを作り上げ、英仏と世界市場で争うまでになったドイツでは、第一次対戦の敗北後、革命によってワイマール共和国を生み出したが、やがてナチス党が国家権力を掌握し、総統ヒトラーの独裁体制の下、ジェノサイド政策によってユダア人600万人や共産主義者、ロマの人びと、心身障害者など殺戮し、総力戦に突入し崩壊した。

マルクス主義が理解していたように、国家と生産システムは直接的に連結されていない。国家は、それ独自の存在根拠を持っていると理解すべきだ。では、その存在根拠とはなにか。

ボルシェビズムであれ、ナチズムであれ、国家を占領し、乗っ取ることが可能だったのは、国家は権力装置であるがそのOSとしての頭脳はいわば白地であり、どんなイデオロギーであれ受容できる、つまり上書きできるからである。

権力装置としての国家はかならずOSを求める。なぜなら国家の存在根拠は、即物的に誰が敵で、誰が味方かを決め、構成員を捕獲、支配することにあり、OSとは敵味方と国家の向かうべき方向と、構成員をどう捕獲、支配するかを指示するものだからだ。OSなしに国家は作動しない。ボルシェビキやナチス党は「OSを持った戦争機械」として、国家を乗っ取ったことになる。そして、乗っ取った時点で、これらの戦争機械と国家は連結されていく。

ただし、ここでいう国家は近代国家であり、それ以前の国家と異なった特性を持っていることに注意しなければならない。

近代国家は、契約国家だとされ(その契約内容が憲法となる)、主権者である国民がその権能を国民代表機関である議会に委任し、国民は議会が決めた法にのみ自己拘束されるという建前がとられている。この特性から帰結するのは、近代国家は、構成員全員を法の名宛人とし、したがって権力装置はつねに構成員全員を対象として登録し、その配慮、監視、馴致(訓育)を使命とするということである。

ボルシェビキもナチスも、この近代国家の特性から自由ではなかった。彼らがいかに無法であったとしても、構成員に向けて発動される命令は常に「法」、すなわち構成員の同意の衣装をつけなければならなかった。大量殺戮でさえ、法が命じた措置、あるいは法が認許した措置という弁明が伴っていたのである。そこでは悪法も、つまり法ならざる法も、法であるというロジックが要求されていた。

したがって、むしろ彼らは近代国家の特性を極限まで推し進めたと言うべきである。戦争機械としての二つの党が作り出した全体主義国家は、近代国家とは無縁の怪物国家ではなく、まさに近代国家がデモクラシーの先に必然的に収斂する国家形態であり、それは私たちが既に指摘したように「絶滅装置」となる。

だとすれば、近代国家において、議会制民主主義があたかも機能しているかのように見える時は(たとえばドイツのワイマール共和国や、戦後日本がそうであるように)、絶滅と絶滅の間に挟まれた束の間の間奏曲と考えるべきである。私たちがそこから脱出する途を見出すまでは。

それゆえ私たちの課題は、資本主義生産システムを瓦解させると同時に、脱出の途である国家の廃絶をめざさなければならないということになる。では、国家の廃絶はいかにして可能になるかが次に問われることになる。言い換えれば、国家が自然消滅しないとすれば、国家に代わるいかなる共同体をわれわれは対置すべきなのか、と。

国家の存在根拠、作動するドライブが構成員の支配であり、そこで働く力動線がその支配と服従をめざすとすれば、支配が不可能となるシステムを対置するしかない。それは、構成員の自己統治と相互の協働が基本的ドライブとなる共同体であり、そこでは、決してその上に共同体の運命を預ける権力組織をつくらないことが全構成員の盟約とされる社会システムだろう。

2019.9.(未完)