三つの出来事とその情景が絡み合って交錯する。IS占領地とサウジアラビアで、同性愛者と見なされた者が屋上から突き落とされ、斬首される。アメリカで、無防備の黒人たちが、警官に問答無用で射殺される。そしてこの地で、希望の党なるものが、入党希望者に党首の指導に異論は挟まず、ただ従うべしとする誓約書にサインさせる。
それぞれ異なった地で生起した、時間的にも差異がある出来事である。だが、これらの出来事が絡み合うのは、そこに共通項があるからだ。それは一言でいえば、いずれも、第二次大戦後に構築された近代社会の建付けが崩壊し、その底が抜けつつある中で発生している出来事だということである。
近代社会が、代表制民主主義と社会の域内平和を前提とするものであったとすれば、その前提が崩壊しはじめているのだ。もはや民主主義も、社会平和も維持できないとすれば、そこに待ち受けているのは、内戦という事態である。
この内戦の口火を切っているのは、「いまや議会で反対派を懐柔することに意味はなく、ただ叩き潰すしかない」、つまり「憲法や法に縛られることは愚かなことだ」と断言するファシストたちである。
「自分たちのモラル、性道徳に反する人間や、人種的に同一化できない者は隔離し、抹殺していいし、政治的な異分子から発言権を奪っても構わない」というわけだ。
希望の党の誓約書や振る舞いは(そしてアベシンゾウとその取り巻き連中の行為は)、維新が先鞭をつけたファシズム運動が、政治権力を争う場に公然とその姿を現したことを示している。小池たちファシストは、嘘、デマ、思いつきをなんのてらいもなく断言する点ですでに法と憲法の外に立っている。たとえば小池にとっては憲法は「一時停止して、全面的に書き換えればいい」程度の対象なのだ。それが法が意味を失い、ただ力と力がぶつかり合う内戦の意味である。
あらためて、小池の無法ぶり(バーバリズム)を如実にしめす誓約書を掲げておこう。綱領も、公約も、憲法改正案もなんらその内容を示さず、ただ遵守せよと立候補予定者に迫るのは党への白紙委任状に他ならず、小池独裁の宣言に等しい。このような党が政権を争うわけだ。
10.8.2017