人びとのたたかいは、何としてでも守るべきものや、どうしても許してはならないものをめぐって起るものだ。だから人びとが立ち上がり、敵に対峙する時に、たたかいの勝敗は多くの場合その念頭にはないだろう。

しかし、たたかいが共感を呼び、参加する人びとの輪が広がり、それとともにさらに敵との攻防が激しさを増してくると、どうしてもある局面で、これからのたたかいの展望が問題になってくる。とりわけ犠牲者が出はじめる局面では。

時には敵が譲歩し、その結果、一時的に成果を手にすることがある。一時的な勝利。他方では、人びとの間でこれからの見通し=展望をめぐって論争が起こり、分裂が起こったり、さらには隊列から離れる人びとが増え、たたかいがしだいに勢いを失い、消滅していくこともある。敗北。(もちろん劇的な勝利することや、暴力的な弾圧で物理的に壊滅させらることもありうる)

一時的な勝利と敗北は、たとえそれがどれほど人びとの切実な願いと欲望を土台にしたものであったとしても、すべての社会運動につきまとう。永遠の勝利ということはありえない。劇的な勝利もその後に押し戻されることもある。社会運動はそれだけ脆いものだ。

「歌はカオスから飛び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかも知れないという危険もある」(ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』)

ここで「歌」とは人びとのたたかい(から生み出される喜び)を指している。社会運動に永遠の勝利はなく、千年王国の到来はないとすれば、ではいったいたたかいは人びとの生にどんな意味を持っているのかという疑問が生まれる。

たたかいの目的が達成できるかどうか分からないにも関わらず、それでも人びとが止むにやまれず立ち上がり、敵と対峙していくとすれば、たたかいの意味は、目的の達成それ自身ではなく、むしろ「たたかいの過程」にあると考えなければならないだろう。たたかいはある目的のための手段ではなく、それ自身が目的を構成するのだと。

ではたたかいの過程には何があるのか。一言でいえば、たたかいの中で人びとはそれまでの生とは別の「新たな生」に覚睡し、その結果、人びととの間でそれまでとは異なる新しい絆(人間関係)を生きるという体験である。ストリートでの祝祭的空間や協同作業と議論が展開されるトポスで、あるいは獄中で。

この新しい体験は長続きするわけではない。しかし「新たな生」と「絆」は人びとの内面に深く刻印され決して消えることはない。そのことによって、たたかいそれ自身も「祈念碑」として歴史的に(たとえ一時的に消えさるように見えても)人びとの間で継承され、どこかの時点でその記憶が浮上する。

「出来事としての革命の成功は、それ自身の内にしか存在しない。….革命の勝利は内在的であり、革命を形成する物質が融合する間しか続かず、さっそく分断と裏切りに道を譲ってしまうとしても、それが人びとの内に築く新しい絆に存在している」(ドゥルーズ=ガタリ『哲学とは何か』)

もちろん純粋にたたかいは内在的なものに限られるわけではない。たたかいの中で実験的に、試行錯誤の中で生み出された政治/社会システムも、アイデア(知恵)として人びとの記憶に刻まれていくであろうし、それは未来のたたかいで必ず参照されるものになるだろう。

抽象的に聞こえるだろうが、こうしてたたかいを通じて人びとは「限りある生」を生きつつみずからの生を多様に拡張し、かつ時間を超えることができるのだ。このことはたたかいの勝敗とは関係なくひとびとの間で生起する。

その意味では、もしたたかいに必然性があり、人びとの間で広さと深さを持つなら、それは常に現在と未来で勝利しているのであり、およそ敗北はないとも言えるだろう。

2018