2023年2月                                                 K.T

拙論に対し、2023年にK.T氏からいただいていたコメントを大幅に遅れましたが、ご本人の了解をいただき掲載します。

1. 第一形態について

「価値形態論の冒頭におかれた等価交換形態『X量の商品A=Y量の商品B』 は、本来は、商品ではなく、物と物との等価交換とされるべきでした」

ノードさんがこのように述べる根拠の一つとして、第一形態の交換は現実にはあ りえないことを挙げられています。なぜ、マルクスが第一形態から出発したか については、「貨幣・商品・共同社会」に対するコメントで述べておきました ので、再論しませんが、マルクスは次のように述べています。

直接的な生産物交換は、一面では簡単な価値表現の形態をもっているが、他 面ではまだそれをもっていない。あの形態は、x量の商品A=y量の商品B であった。直接的な生産物交換の形態は、x量の使用対象A=y量の使用対 象Bである。AとBという物は、ここでは、交換のまえには商品ではなく、 交換を通してはじめて商品となる。ある使用対象が可能性から見て交換価値 である最初の様式は、非使用価値としての、その所有者の直接的欲求を超え る分量の使用価値としての、その定在である。(原著MEW版、102頁。翻訳 は新日本新書版より)

しかし、そのうちに、他人の使用対象にたいする欲求がしだいに固まってく る。交換の不断の反復は、交換を一つの規則的な社会的過程にする。それゆ え、時の経過とともに、労働生産物の少なくとも一部分は、意図的に交換め あてに生産されざるをえなくなる。この瞬間から、一面では、直接的必要の ための諸物の有用性と交換のための諸物の有用性とのあいだの分離が確定す る。諸物の使用価値は、諸物の交換価値から分離する。(同、103頁)

ここでマルクスが述べているのは、「直接的な生産物交換」=物々交換とは、 余剰物の交換であり、交換を目的として生産されたものではなく、使用対象= 使用価値としてのみ生産されたものが交換であり、その余剰物は現実の交換過程(観念的な交換関係とは区別された)によってはじめて商品となる、という ことです。「一面では簡単な価値表現の形態をもっているが、他面ではまだそ れをもっていない」というのは、生産の段階では商品ではなく、その消費の 段階で余ったものが交換されることによって商品となる、という意味なので す。 しかし余剰物の交換を通して、自分のところで生産していない使用対象への欲 求が発展し、それを取得するためのものとして、つまり最初から交換を目的と して(すなわち観念的な交換関係が常に意識されるような)生産を行うようになる。その瞬間に使用価値=現物形態と交換価値=価値形態との分離が確立さ れ、生産物は最初から商品として生産されるようになるのです。 ノードさんは「商品の単純な価値形態」が「労働生産物の単純な商品形態」と言 っていることの意味がつかみにくいと述べています。商品とは最初から交換を 目的として生産される生産物だということを形態の側面から述べたのがこの文 章です。商品とは使用価値と価値という二つの形態を持った労働生産物です。 前者の形態はどの労働生産物、すなわち商品ではない労働生産物にも備わって います。商品に固有の形態は価値形態なのです。そのような意味で商品の価値 形態は労働生産物の商品形態なのです。 さらにマルクスは続いて同じ内容を貨幣の生成と関連付けて述べています。

直接的な生産物交換においては、・・・・交換品は、それ自身の使用価値、 または交換者の個人的欲求から独立した価値形態をまだ受け取っていない。 この形態の必然性は、交換過程に入り込む商品の数と多様性の増大とともに 発展する。課題はその解決の手段と同時に生じる。商品所有者が彼ら自身の 物品を他のさまざまな物品と交換したり比較したりする交易は、さまざまな 商品所有者のさまざまな商品がその交易の内部で同一の第三の種類の商品と 交換され、価値として比較されることなしには、決して生じない。このよう な第三の商品は、他のさまざまな商品にとっての等価物となることによっ て、直接的に——たとえ狭い限界内においてにせよ——一般的又は社会的な 等価形態を受け取る。この一般的等価形態は、それを生み出す一時的な社会 的接触とともに発生し、それとともに消滅する。この形態は、あれこれの商 品に、かわるがわる、且つ一時的に帰属する。しかし、それは、商品交換の 発展につれて、もっぱら特殊な種類の商品に固着する。すなわち、貨幣形態 に結晶する。(原著、103頁。強調は引用者)

ここでマルクスは貨幣の歴史的生成について語っています。ここで注目すべきは、一般的等価形態は商品交換の発展にともなって形成されるということですが、ここでの叙述を価値形態についてみてみるならば、第二形態と第三形態とは歴史的・現実的には同時に発生するということをマルクスは述べていることです。発展した商品交換は、一般的等価形態の成立を同時にもたらす、とマル クスは述べているのです。ノードさんの貨幣先行説とあまり違いはないかのようにも思えます。但し、これは歴史的な展開過程についての叙述であることに注 意する必要があるでしょう。ここでは価値形態とは何かという本質的把握=概 念把握はなされていないのです。 価値形態論ではそのように歴史的に発生した貨幣とはどのようなものか、その 論理的構造を解明したものです。マルクス自身は両者を厳密に区別したうえで、両者のある程度の照応関係を認めていたと思います。歴史的には第二形態 は第三形態と同時的であるのに対して、論理的には明確な区別がなされている からです。そのような区別は、貨幣の概念的把握にとって重要なのです。ここ でいう概念的把握とは対象の本質の把握であり、対象を構成する諸契機の内的 =必然的関連の把握の意味です。そのような把握の方法が弁証法だとマルクス は述べているわけです。 マルクスの貨幣生成史の叙述からわかることは、単純な価値形態=第一形態は歴史的な実在としてはまだ完全な商品形態ではない、ということです。

しかし 論理的には価値形態把握の出発点となすとマルクスが考えていたのは、次のよ うな理由によるものと私は理解しています。 第一に、価値形態の完成形態である貨幣形態はある商品と貨幣商品との単純な価値形態です。商品と貨幣の交換とが単純な価値形態の高次の次元での回帰で あるわけです。しかし、等価形態商品を最初から貨幣として規定すると、貨幣 の秘密も謎も解けません。貨幣もまた特殊な一商品であるからこそ、第一形態 を商品同士の単純な、あるいはより正確に言えば単一の価値形態として分析したのです。 第二に、第一形態は第二形態の一部分であり、第二形態はさまざまな第一形態 の集合へと分化させることが可能です。したがって価値形態論での第一形態 は、全面的な商品生産社会における価値形態の要素的形態なのです。その限り で、第一形態の商品は最初から交換を目的とした生産物、すなわち交換以前に すでに商品であるような生産物なのです。従って、単なる使用対象同士の交換 =物々交換として理解すべきではないのです。 価値形態論はあくまでも貨幣の論理的=構造的な根拠の解明です。歴史的展開 ではないと読むべきだと私は解釈しています。榎原さんはこれを思考実験だと述 べたことがあると記憶していますが、その意味を私は上のように理解しています。

2.貨幣の必然性は公平(正義)の観念か?

ノードさんは人間に備わる公平の観念が貨幣生成に必然性を示していると述べら れています。しかし、果たしてそうでしょうか。確かに公平の観念が商取引の背景にあることは間違いないでしょう。しかしその公平性が等価性=等労働量 である根拠は明らかでありません。公平性だけを言えば限界効用価値説のように欲求充足の満足度の公平性を等価性の根拠におくことも、労働価値説と同様 に可能となるのではないでしょうか。公平の観念からは直ちに等価性を導くこ とはできないのです。さまざまな公平性が商品交換の場合には等価性であるこ とは人間の観念では説明できないのです。 やはり貨幣の生成は、価値概念への適合という観点からの価値形態論の展開が必要なのではないでしょうか。また、そのためには商品の交換関係から価値実体を分析する必要があるのではないでしょうか。貨幣を前提とする商品論の限 界がここにあるような気がしてなりません。

3.「交換過程における壁」について

「商品から貨幣への転化が何の障害にもぶつからない必然的でスムーズなプロ セスとして説明していたマルクス」は、初版付録及び第二班の価値形態論を書 いたマルクスのことであれば、おおむね正しいと思います。しかし、榎原さんの 先駆的研究が明らかにしたように、価値形態論と交換過程論とを統一的に理解 するためには初版本文によることが決定的に重要だと思います。そこでは交換過程における壁が、価値形態論レベルでの壁として存在しており、交換過程論 の壁との整合的な展開が行われているからです。 価値形態論レベルでの壁は、一般的等価形態の生成はすべての商品が可能であ り、すべての商品がそのように自己主張すると、一般的等価形態は崩壊し、そ れゆえそれが特定の商品に固着することができず、貨幣は成立しない、という ことでした。 交換過程論では商品所有者が商品からのサインを無意識的に読み取り、すなわち意志を支配されることによって、共同行為によって貨幣を生成させる過程が 解かれています。なぜ、商品所有者は商品それ自体がなしえなかったことをな しえるのか。言い換えるならば、なぜ商品所有者は商品の意向に意志を支配さ れてしまうのか。それは以下の交換過程論冒頭の叙述が明らかにしています。

商品所有者をとくに商品から区別するものは、商品にとっては他のどの商品 体もそれ自身の価値の現象形態としての意味しか持たないという事情であ る。だから、生まれながらの水平派であり犬儒派である商品は、他のどの商 品とも、たとえそれがマリトルネスよりまずい容姿をしていても、魂だけで なくからだまでも取り替えようと絶えず待ちかまえている。商品所有者は、 こうした、商品には欠けている、商品体の具体性にたいする感覚を、彼自身 の五感およびそれ以上の感覚でもって補う。(原著、100頁)

商品所有者にとって自己の商品は自己にとっての使用価値=欲求の対象ではな く、それと交換に手に入れる他者の商品こそが自己にとっての使用価値です。 言い換えると商品を交換しなければ生きていけないのです。これが商品に意志 を支配されてしまう理由だと私は思っています。そしてその欲求の対象は広汎なものに及んでいます。単に個別的な交換が目的ではないのです。だからこ そ、商品所有者は自己の商品を一般的等価物として主張するのです。 その解決策が無意識的な共同行為による貨幣の生成ですが、それは歴史的であ ると同時に、つねに価格をつけるという行為によって再生産されているのであり、やはり歴史的経緯に触れる以前の交換過程論は論理的な展開だと言えるのではないでしょうか。

ノードさんが価値形態論と交換過程論との整合性を問題にしていますが、それは 初版本文によるならば、解決できるのではないでしょうか。もっとも貨幣生成を前提としないことの矛盾を指摘するノードさんには、納得していただけないか もしれませんが。 商品・貨幣の廃絶の道筋については、私も同意しますが、ただ、「貨幣は労働 生産物を交換する必要性から生まれ、それとともに労働生産物が商品になるわ けですから、・・・・つまり、貨幣から商品が生まれるとすれば、労働生産物 が商品でなくなれば、貨幣もまた消滅することになるわけです」という部分 は、その必然性を理解できません。貨幣が商品を産出するとすれば、その産出 主体が先になくならないかぎり、産出される対象もなくならない、と考えるの が普通ではないでしょうか。労働生産物を交換する必要がなくなれば、貨幣も必要なくなり、商品も死滅する、というのなら分かりますが、交換を目的とす る労働生産物はそもそも商品である、という私の前提に立って、これを言い換 えるならば、商品交換の必要性から貨幣が生まれるのだから、商品を廃絶しな いことには貨幣も消滅しない、ということになるのです。やはり、前のコメン トでも述べたように、ここに私たちの間の深い溝があるような気がします。