ヴトゲンシュタインの最晩年のノート『確実性の問題』では、数学や論理学など、プラトンからカントに至るまで、人間世界とは別の次元に存在するとされてきたものも、人間が行動し、経験して得た結果を(世界内の)現実と照合し、繰り返し一致したものが確かな命題として蓄積され、やがて固定化し、計算したり、論理的に考えたりする際に自明のこととして参照されるに至ったものだとされる。
これは、彼が最初『論理哲学論考』で考えていたように論理とは世界の写像である、つまり世界も論理的構造を持っているという立場とは異なっている。写像論の限界、つまり世界の論理的構造をどうしたら知ることができるかの壁にぶつかったヴトゲンシュタインがその壁を突破しきれず、いったん独我論に傾きながらも、そこからの転換を図り、到達したのが上記の『確実性の問題』の立場だとされる。
つまり、数学も論理学も人間の行動と経験を言語で表現したものである以上、言語としての限界を超えることはできないということになる。そして言語の限界とは、言語として表現できないものである以上、世界が論理的構造を持つかどうかを言葉で言い表すことはできず、そのまま問題として残ったのである。
だとすれば、後期ヴトゲンシュタインの立場はカントの「物自体」とどう異なるのか。カントの場合は、数学や論理学は(プラトンのイデアとは異なるとしても)人間に先天的に与えられている認識の形式であり、したがって世界とは切り離されたものだが(超越論的認識)、ヴトゲンシュタインの場合は、認識の形式はアプリオリに与えられているものではなく、あくまで人間の行動の結果、確かなものとして蓄積されてきた規則集であり、世界の中での行動の経験的な所産である点で世界と接続されている。ただ世界自体を知ることはできないとされている。
言い換えれば、世界は人間が規則集によって認識し、推測できる範囲内で一定の法則性を備えているように構成されるに過ぎない。この点では、ヴトゲンシュタインはカントと共通の土台に立っていると言うべきだろう。
世界を認識できないことは、人間の認識がその基底において一つの前提からはじまり、回帰するトートロジーであり、それ以上の根拠を欠いていることを意味する。ゲーデルの「不確定性原理」はそれを明らかにした。しかし、根拠を欠いているから認識が無意味だということにはならない。それは人間が世界(自然)の中で生きていく上で不可欠な社会的な心身的装置と言うべきである。
ヴトゲンシュタインに従って、もし人間が言語によって(すなわち数学や論理学の形式で)世界を捉えているとすれば、そこで得られた認識(命題や概念など)は本質的に経験的なものであり、帰納的なものだということになる。つまり人間が認識したものは、永遠に変化しないもの(プラトン以来の言葉で言えば、イデア)から演繹されたものではありえないことになる。このことは、科学において、新しい観察結果が発見された場合に、それまで法則とされてきたものが上書きされることに現れている。
命題や概念が帰納知であることは、たとえば数学の等式に端的に表現されている。等式とは左辺と右辺が同一であることを意味するが、左辺とは一定の現象、右辺をその結果と理解することができる。つまり経験的な因果関係を表現したものとみなすことができる。左辺の現象はさまざまな変数によって多様でありえるが、それが一定の現象として現れる場合、経験上、かならず右辺の結果をもたらすとすれば、両者には因果関係があると認識されるようになる。つまり等式はあくまで帰納的な認識結果を表現するものである。そして等式とはトートロジーであり、それ以上の根拠を持たないものである。
世界が経験的に、帰納的に解釈されたものであり、世界自体は認識できないとすれば、世界がいつどう変化するか、人間は本質的に予測できないことになる。さらにこのことは、世界自体は人間にとって人間化(言語化)できないゆえに、意味としては存在しない、つまり無意味だということになる。
「思弁的実在論」として登場した新しい哲学潮流は、まさにこの不可知論を積極的にとらえかえそうとするものである。この潮流を代表する哲学者たちの主張はそれぞれ異なっているが、カント以来、「物(世界)自体」から人間の認識が切り離された結果、認識のありかただけが問題にされてきたこと(相関主義と呼ばれ、言語論的転回があったとされる)を問題にし、もう一度認識を世界自体に接続する唯物論的な回路を探ろうとしている点で共通している。
その一人であるカンタン・メイヤスーは『有限性の後で』において、人間が存在しない「祖先以前的世界」を数学に基礎を置く科学的測定方法によって推定できる(人々が確かなことして受け入れる)ことが示すように、数学こそ人間から独立した世界自体にアクセスできる方法であるとして(ただし数学の根拠には詳しく触れていない)、ちょうど前期ヴトゲンシュタインの『論理哲学論考』に回帰したような立場を取りながら(写像論とは異なっているが)、その結論は、世界自体は人間から独立しているがゆえに、人間にとって無関係、無意味であるとし、突然変化する、あるいは消滅する可能性もありえるとする。
結論部分はヴトゲンシュタインの『確実性の問題』とほとんど重なっている。違っているのは、「世界は唯物論的に認識できるが、無意味である」という建て付けだけであるように見える。『有限性の後で』の中で印象的なパラグラフを引用しておこう。
いかなるものであれ、しかじかに存在し、しかじかに存在し続け、別様にならない理由はない。世界の事物についても、世界の諸法則についてもそうである。まったく実在的に、すべては崩壊しうる。木々も、星々も、星々の諸法則も、自然法則も論理法則もそうである。これは、あらゆるものに滅びを運命づけるような究極の法則があるからではない。いかなるものであれ、それを滅びないように護ってくれる究極の法則が不在であるからなのだ(人文書院版、千葉雅也他訳、94頁)
人間の認識形式を世界の中で経験したことを蓄積した規則集だとしたヴトゲンシュタインは、たとえ世界自体を(その本質とかイデアと言う形では)知ることができないとしても、生のあり方としてはそれで十分であるとしたように見える。認識できないから世界は無意味であるとは明言していない。言い換えれば、無意味なことを言挙げするのは(人間の生活の中では)無意味だと思いなしていたのだろう。だが「思弁的実在論」による人たちはそこから一歩進んで世界の無意味さから積極的な意味を引き出そうとしている。
それは一方ではポストモダン哲学を継承して、繰り返し登場する観念論や形而上学にダメ出しをしながら、他方では、マルクス主義に特徴的な近代主義的な唯物論(生産力主義、科学主義)を批判しつつ、人間とは無関係な世界(自然)と正面から向き合うべきだと主張している。自然が全面に出てくる背景には、地球環境の悪化によって自然の消滅という事態も想定せざるをえない人新世の時代に私たちが生きているという認識があるからだろう。世界(自然)がいつ滅ぶか分からないという絶望的な認識に立つからこそ、逆説的に、これまでの認識を拘束してきた近代のエピステーメーから離脱でき、より自由な行動世界を開くことができると提唱するのだ。示唆に富む潮流と言うべきだろう。
2.15.2021