マルクス価値形態論をめぐる疑問

                           2022年9月 

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この小論は2023年1月現在書き終えていませんが、継続することを前提にとりあえず掲載することにしました。主に個人的な便宜のためです。ただそのことを前提に読みかけていただいてご意見、ご批判がある場合は投稿いただけば歓迎いたします。なお書く中で途中から、本来はジャック・デリダ風に「マルクス価値形態論の脱構築」とするべきかな考えるようになっています。また本稿を書き始める前、2021年にメモ的に書いたものが『貨幣、商品、共同社会』なるので、先に読んでいただいたほうがより問題意識を知っていただけると思います。(2023年1月)

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この小論では、マルクスが資本論の冒頭で展開しているいわゆる「価値形態論」に対する疑問を述べ、さらにこの疑問を基点に、「価値形態論」と関連する幾つかの論点についても短く触れたいと思います。

  1. なぜ商品か?
  2. 矛盾と弁証法
  3. 貨幣生成の謎
  4. 交換過程における壁
  5. 貨幣の先在性
  6. 物神論の持ち込み
  7. 物神論の脱構築

1. なぜ商品か?

マルクスは資本論「第一部・資本の生産過程」の冒頭に置かれた「第一編・商品と貨幣」を商品の分析からはじめています。マルクスはその理由を「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの『巨大な商品の集まり』として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる」と説明しています。

「第一編・商品と貨幣」は、まず商品が使用価値と交換価値の二つの価値を体現してると概括しています。そして、使用価値は人間の欲望を満たすことから生まれることは明白であるが、交換価値は、他の異なった商品と交換されることで初めて出現するものであり、使用価値と異なり人間が感覚的には捉えられない「まぼろしのような対象」であるとされています。その上で、交換価値の実態は、それぞれの商品を生産するために投下された人間の労働量と定義されています。ここで、生産活動をおこなう人間の労働は、商品が持つ二つ価値に対応して、使用価値を作りだす有用労働と、交換価値を生み出す抽象的労働の二重性においてとらえられることになります。

以上を前提に、「価値形態または交換価値」のタイトルを持つ第三節で、商品の分析が開始されますが、最初に「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」として、二つの商品の等価交換形態から始められています。

これは、「X量の商品A=Y量の商品B」として表現されています。この 等価交換形態(1)は(資本論現行版では)、その後「全体的な、または展開された価値形態(II) 、一般的価値形態(III) 、そして一般的価値形態の完成形とされる貨幣形態(IV) へと展開されていきます。注目すべきは、交換価値の完成形である貨幣が商品の等価交換形態の展開の結果としてとらえられていることです。つまり論理的に、商品から貨幣の発生が導かれていることです。

しかし考えてみれば、商品が「富の基本的形態」になっている資本主義社会だけでなく、それ以前の社会でも、商品はそもそも貨幣を前提にしたものではないでしょうか。商品は最初から交換を前提にしたものであり、そして交換は、すべての商品の交換比率を体現できる特別な商品である貨幣なしには成立困難だからです。商品分析の最初に貨幣を持ち込まなかったことの問題は、マルクスの価値形態論の出発点に置かれた等価交換形態(I)が実は現実世界では実行されていないことからも明らかだと思われます。貨幣が媒介しない「X量の商品A=Y量の商品B」の等価交換は物々交換を意味しますが、たとえこの交換に可能性があるとしても、極めて例外的な場合をのぞいて、資本主義社会で商品が他の商品と直接的に物々交換されることはありません。

言うまでもなく実際には、商品と貨幣は市場の成立とともに歴史的に形成されてきたものです。原始時代において共同体と共同体の間で物々交換が、つまり異なった共同体どうしが一定の使用価値を持つ物と物を交換することが始まり、やがてその行為が反復継続される中で家畜などの「原始貨幣」が発生し、その結果これらの貨幣との交換で物が商品に転化し、交換場所として市場も形成されていったことは経済学史や人類学で広く知られている歴史的事実です。したがって、価値形態論の冒頭に置かれた等価交換形態「X量の商品A=Y量の商品B」は、本来は、商品ではなく、物と物の等価交換とされるべきでした。

もちろん古代社会や貨幣史を学んでいたマルクスはこの歴史的事実をよく知っていて、すでに等価交換形態を説明している中でも次のように述べています。

「労働生産物は、どんな社会状態の中でも、使用対象であるが、しかし労働生産物を商品にするのは、ただ、一つの歴史的に規定された発展段階、すなわち使用物の生産に支出された労働をその物の対象的な属性として、すなわち物の価値として表すような発展段階だけである」

また価値形態論を展開した後、「第一編第二章・交換過程」では有名なフレーズを残しています。

「互いに他人であるという関係は、自然成長的な共同体には存在しない … 商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点ではじまる … 交換の繰り返しは… 時がたつにつれて、労働生産物の少なくとも一部分ははじめから交換を目的として生産されなければならなくなる… 諸物の使用価値は諸物の交換価値から分離する。他方では、それらの物が交換される量的な割合が、それらの物の生産そのものによって定まるようになる。慣習は、それらの物を価値量として固定させる」

2. 矛盾と弁証法

そうすると、出発点に貨幣を前提としない架空の「商品の等価交換形態」を置き、その展開から一般的価値形態(III)の転化形態として貨幣の発生を導いたマルクスの価値形態論は、一つの矛盾を抱え込んでいたことになります。この矛盾をマルクス自身が意識していたと思われる記述が先に引用した「労働生産物は、どんな社会状態の中でも、使用対象であるが…」の直後にあります。

「それゆえ、商品の単純な価値形態は同時に労働生産物の単純な商品形態だということになり、したがってまた商品形態の発展は価値形態の発展に一致するということになるのである」

ここでマルクスは、商品の単純な価値形態(等価交換形態)は労働生産物の単純な商品形態と同視できると述べています。「労働生産物の単純な商品形態」とは何をさしているのかあいまいで文意が掴みにくいのですが、その趣旨は、上にあげた矛盾は労働生産物と商品の歴史的展開と理論的分析が一致するのだから解消できるということなのでしょう。一般的にいえば奇妙な考え方ですが、このマルクスの発想はどこから来ているのでしょうか。

それは、価値形態論の冒頭で「商品と労働の二重性」として商品を概括していたことから伺えるように、理念(概念)の自己展開としての現実を対立物の統一としてとらえるヘーゲルの弁証法を援用していたからだと思います。ヘーゲルのものであれ、それを唯物論として転倒させたとされるマルクスのものであれ、あるいはまたエンゲルス=レーニンのものであれ、そもそも弁証法はデリダのいう「形而上学」の一つだと考えます。形而上学とは、プラトンのイデア論がそうであるように、世界には人間を超えた「真理」として自己完結するものが存在すると考える立場ですが、デリダが指摘しているように、「真理」なるものは必ず内部に歴史的過去の痕跡を残していて、したがって自己を裏切る矛盾を抱えたものであり、これを方法として採用するのは妥当だとは思えません。そうだとすれば、マルクスが述べている矛盾の解消は実際には実現されず、価値形態論の中で矛盾が露呈しているのではないかという疑問が出てきます。結論から言えば、それは、他でもなく、一般的等価形態に置かれた商品から貨幣が生成するプロセスを説いている部分で起こっていると思われます。そして、商品から貨幣の生成は価値形態論の中心い置かれているテーマなのです。

3. 貨幣生成の謎

では、価値形態論で貨幣の生成はどう説かれているでしょうか。よく知られているところですが、煩を厭わず資本論をたどることにします。

価値形態(III)は一般的価値形態とされ、それは価値形態(II)で示された相対的価値形態を逆転させてえられます。価値形態(II)は、資本論の例でいえば、価値形態(I)で一着の上着と一対一の等価関係において相対的価値形態に置かれた20エレルのリンネルが、上着以外の複数の商品と等価の位置に置かれる形態です。

[価値形態II]

20エレルのリンネル=一着の上着 または

20エレルのリンネル=10ポンドの茶 または

20エレルのリンネル=40ポンドのコーヒー または

…………

[価値形態III]

一着の上着

10ポンドの茶

40ポンドのコーヒー

…………

=20エレルのリンネル

そして、この価値形態(III)において一般的価値形態とされる20エレルのリンネルが価値形態の完成形(IV)である貨幣に転化するとされています。資本論では、リンネルの位置に金が座ることになります。

[価値形態IV]

20エレルのリンネル

一着の上着

10ポンドの茶

40ポンドのコーヒー

…………

=2オンスの金

この貨幣への転化は、「一般的価値形態から貨幣形態への移行」のタイトルの下では次のように説明されています。

「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態III)にあるのは、ただそれが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とを勝ちえたのである」

さらに段落をわけて説明が続きます。

「形態Iから形態IIへの、また形態IIから形態IIIへの移行では、本質的な変化が生じている。これに反して、形態IVは、いまではリンネルに代わって金が一般的等価形態をもっているということのほかには、形態IIIと違うところは何もない。形態IVでは金は、やはり、リンネルが形態IIIでそれだったもの、一般的等価物である。前進はただ、直線的な一般的交換可能性の形態または一般的等価形態がいまでは社会的慣習によって最終的に商品金の独自な現物形態と合成しているということだけである」

「金が他の諸商品に貨幣として相対するのは、金が他の諸商品に対してすでに以前から商品として相対していたからに他ならない。すべての他の商品と同じように、金もまた、個々別々の交換行為で個別的等価物としてであれ、他のいろいろな商品等価物と並んで特殊な等価物としてであれ、等価物として機能していた。しだいに、金は、あるいはより狭い、あるいはより広い範囲のなかで一般的等価物として機能するようになった。それが商品世界の価値表現においてこの地位の独占を勝ちとったとき、それは貨幣商品になる。そして、金がすでに貨幣商品になってしまった瞬間から、はじめて形態IVは形態IIIと区別されるのであり、言い換えれば一般的等価物は貨幣形態に転化しているのである」

この転化プロセスは、先に述べましたが、もし価値形態(I)が商品ではなく、物と物の等価交換とされていたなら、その展開として価値形態(II)および(III)も物と物との交換形態になり、そして(III)で一般的価値形態とされた20エレルのリンネルが最終的に貨幣となる金に転化するのは必然的なプロセスとして理解可能です。

少し横道にそれますが、なぜ必然的プロセスとして理解可能なのかと言えば、交換行為を含む人間と人間の関係において「物と物とは等価交換されなければならない」という公平(あるいは正義)の観念が時と場所を超えて共有され、当事者を規律していると考えられるからです。公平(あるいは正義)は、経済的な関係に限らず人間社会において普遍的な観念というべきで、たとえば犯罪と刑罰の領域でも、古代から近代前まで存在していた「同害報復(タリオ)」という考え方に反映されていますし(これをカントが擁護したことはよく知られています)、同害報復に起源を持つ「応報刑」が現代の刑法でも刑罰の根拠とされていることにも現れています。

時代と場所によってその形態は異なっていても、原始貨幣はまさにこのプロセスを通じ歴史的に形成されていきました。貨幣が歴史的に形成されてきたことは、マルクス自身、転化プロセスの説明の中で言及せざるをえず、先の引用の中でも「一般的等価形態がいまでは社会的慣習によって最終的に商品金の独自な現物形態と合成して(いった)…」とか、「それが商品世界のの価値表現においてこの地位の独占を勝ちとったとき、それは貨幣商品になる」とかの歴史的過去を意味する表現が使われています。しかしマルクスはここで、もともと貨幣の存在を前提としていたはずの「商品リンネル」から貨幣の発生を(歴史的にではなく)あくまで論理的に説こうとしているのです。この屋上屋を重ねる矛盾は「第1章商品」につぐ「第二章交換過程」で現れます。

4. 交換過程における壁

「第一章商品」から読み始め、商品リンネルが最終的に貨幣に転化する価値形態論の結論部分まで読み進んだ読者は(『第四節商品の呪物的性格とその秘密』という難解な部分がありますが)、この「第二章交換過程」に入ると奇妙な印象を持つことになるでしょう。というのは、前章で商品から貨幣への転化は何の障害にもぶつからない必然的でスムーズなプロセスとして説明していたマルクスが、この交換過程で転化が一つの壁にぶつかると説明しているからです。

マルクスは、交換過程で、まず商品とともに商品所持者を登場させます。

「商品は自分で市場に行くことはできないし、自分で自分たちを交換し合うこともできない。だからわれわれは商品の番人、商品所持者を探さなければならない」

なぜここで商品所持者が登場するのでしょうか。もともと価値形態(I)から(III)まで人間と関係なく商品同士が関係するというマルクスの価値形態論の立て付け(ヘーゲル弁証法)に無理があり、ここで人間=商品所持者を登場させることで、その無理を乗り越えようとしているからだと考えることができます。マルクスはこのパラグラフに続いて、交換過程でぶつかる壁について述べています。すこし長いですが、引用しておきます。

「すべての商品は、その所持者にとっては非使用価値であり、その非所持者にとっては使用価値である。だから商品は全面的にその持ち手を取り替えなければならない。そしてこの持ち手の取り替えが商品の交換なのである。また商品の交換が商品を価値として互いに関係させ、商品を価値として実現するのである。… (しかし)どの商品所持者も、自分の欲望を満足させる使用価値を持つ別の商品と引き換えにでなければ自分の商品を手放そうとしない。その限りでは、交換は彼にとってはただ個人的な過程でしかない。他方では、彼は自分の商品を価値として実現しようとする。すなわち、自分の気に入った同じ価値の他の商品でありさえすれば、その商品の所持者にとって彼自身の商品が使用価値をもっているかどうかに関わりなく、どれにでも実現しようとする。… もっと詳しく見れば、どの商品所持者にとっても、他人の商品はどれでも自分の商品の特殊的等価物とみなされ、したがって自分の商品はすべての他の商品の一般的等価物とみなされる。だが、すべての商品所持者が同じことをするのだから、どの商品も一般的等価物ではなく、したがってまた諸商品は互いに価値として等値され、価値量として比較されるための一般的な相対的価値形態をもっていない。したがってまた、諸商品は決して互いに商品として相対するのではなく、ただ生産物または使用価値として相対するだけである… 」

アンダーラインの記述が奇妙なところです。私たちが仮定したようにここでは商品ではなく、一定の使用価値を持った(マルクスの用語を使えば)労働生産物と労働生産物が物々交換される場面にとどまっているとすれば、まずどの労働生産物の所持者も自分の生産物と自分が望む使用価値をもつ他の生産物とを交換できればいいわけですから、マルクスが述べているように「自分の商品を価値として実現しようとする」こと、すなわち「自分の気に入った同じ価値の他の商品でありさえすれば、その商品の所持者にとって彼自身の商品が使用価値をもっているかどうかに関わりなく、どれにでも実現しようとする」ことは念頭にないはずなのです。ここでマルクスが述べているのは、商品所持者がみずからの商品を一般的等価物として他の商品を手に入れようとする場面における意志です。そうだとすれば、それは一般的等価物の転化形態である貨幣として振る舞おうとしていることを意味します。ところが、この場面ではまだ貨幣は発生しておらず、商品所持者の誰も貨幣を持っていません。その結果、「諸商品は決して互いに商品として相対するのではなく、ただ生産物または使用価値として相対するだけ」になります。

マルクスによれば、商品所持者たちが「自分の商品を価値として実現しようとする」結果、すなわち彼らがすべて自分の商品を「一般的等価物」の位置に置こうとする結果、商品としては互いに交換不可能な状況に置かれることになります。これが交換過程における壁であり、これについてマルクスは先の引用に続けて次のように述べています。

「われわれの商品所持者たちは、当惑のあまり、ファウストのように考え込む。だが、太初に業ありき。だから、彼らは考える前(交換の不可能性を乗り越える行為を)にすでに行っていたのである。商品の本性の諸法則は、商品所持者の自然本能において自分を実証したのである。彼らが自分たちの商品を互いに価値として関係させ、したがってまた商品として関係させることができるのは、ただ、自分たちの商品を、一般的等価物としての別のある一つの商品に対立的に関係させることによってのみである。このことは、商品の分析が明らかにした。しかし、ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外した商品で他の全商品が自分たちを価値を全面的に表すのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能となる。こうして、この商品はー貨幣になるのである」

ここで主張されているのは、価値形態の分析は、20エレルのリンネルが貨幣に転化する一歩手前の形態である一般的等価形態の位置を占めるところまで明らかにしたが(価値形態IIIまで)、実際にそれが貨幣に転化するには、商品所持者たちの社会的行為が必要であり、その社会的行為とは、交換行為そのものではなく(なぜならそれはまだ交換の手前にあるので)、商品の中から一定の商品を除外し、それを貨幣とすることだと読めます。そうすると、このパラグラフの冒頭で述べられている「… 太初に業ありき。だから、彼らは考える前に(交換の不可能性を乗り越える行為を)すでに行っていたのである」の「業」とは、マルクスの含意では貨幣の創造ということになるでしょうが、実際には一定の商品を貨幣に選び出す社会的行為になります。この、ある商品を貨幣として選び出す行為とは、先に述べた「ここでマルクスが述べているのは、商品所持者がみずからの商品を一般的等価物として他の商品を手に入れようとする場面における意志であり、一般的等価物の転化形態である貨幣として振る舞おうとすること」と符号しています。交換の場面における商品所持者たちの心理を砕いていえば次のようになるでしょう。「どんな商品とも交換できる商品を決めなければ交換は不可能なんだから、まず皆でその商品(すなわち貨幣)をどれにするか決めようではないか」と。

しかし、マルクスのこの貨幣生成論は整合性を欠いたものです。なぜなら、価値形態の必然的な展開として貨幣がどう生成したかという問いを立てながら、まだ貨幣が出現していないにもかかわらず(つまり商品所持者は貨幣というものの存在を知らないにも関わらず)「それは貨幣を作ろうとする商品所持者たちの意志によってである」と、答えが先にある循環論法に陥っているからです。そしてマルクスによれば、この意志は、自分の商品を一般的等価物の位置に置きたいという商品所持者たちの欲望にもとづくものとされています。商品所持者のこの欲望と、それにもとづく意志によって商品が発生したというわけです。

繰り返せば、一定の使用価値をもった労働生産物と労働生産物が物々交換される場面であれば、それぞれの労働生産物の所有者達は「自分の商品を一般的等価物の位置に置きたい」という欲望を持っておらず、自分にとって使用価値がある物と交換できさえすればいいので、「ファウストのように考え込む」必要がありません。つまり交換における壁は存在しないはずです。マルクスの言葉を重ねて引用すれば、貨幣が存在しなければ「諸商品は決して互いに商品として相対するのではなく、ただ生産物または使用価値として相対するだけ」であり、生産物として交換可能なのです。

彼らにもし悩みがあるとすれば、自分の望む物の所有者が正当に等価交換してくれるかどうかという信頼の問題だけでしょう(これは、原始時代では交換が安定的に反復されるまでは大きな問題でしたが)。

したがって、交換の場面において交換不可能生の壁にぶつかるのはマルクスの設定した商品所持者たちだけという結果になるでしょう。それは、冒頭で述べたように「出発点に貨幣を前提としない架空の『商品の等価交換形態』を置いたこと、そしてその展開から一般的価値形態の転化形態として貨幣の生成を導こうとしたマルクスの価値形態論」の方法の矛盾から派生していると思われます。

マルクスの主張をまとめれば、「商品と商品の(論理的)関係からは貨幣の生成は導けない。そこに貨幣を創造しようとする人間の(歴史的な)共同行為が必要である。しかしその共同行動は商品の本性がもつ法則に人間が無意識で(知らないで)従った結果である」ということになるでしょう。しかしここでは、(論理的)と(歴史的)という言葉を補わなければならず、そこに矛盾が露呈していることになります。

5. 貨幣の先在性

ここから言えることは、およそ商品と商品が交換される場面ではすでに貨幣が存在していなければならないということです。これは物々交換の反復から自然成長的に原始貨幣が生まれたという歴史的事実に照応しています。そこでこの事態を「商品交換における貨幣の先在性」と表現していいかも知れません。言い換えれば、貨幣の発生によって労働生産物が商品となったということです。逆ではないのです。そして貨幣の発生は、労働生産物の物々交換が反復される中で自然成長的に、言葉を変えれば、人々の集合的な行為によって生まれたと考えるべきでしょう。ここで「集合的な行為」とは、共同体の意志を体現した個々の人間の交換行為がベースになってはいますが、それが集合的に反復して行われることで交換行為に参加する共同体すべてを拘束する力を持つにいたる共同行為と言う意味で使っていますが、市場や言語が形成されていったプロセスと同型のものです。マルクスは貨幣の発生に関して「社会的行為」という言葉を使っていますが、これは厳密には「集合的な行為」と異なっています。

マルクスの理解では、上に述べたように、商品所持者が貨幣を生み出す社会的行為とは「商品の本性の諸法則(が)、商品所持者の自然本能において自分を実証する」共同行為ということになります。このことは「第二章交換過程」の冒頭で別の表現で述べられています。

「商品は物であり…これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなければならない。したがって、一方はただ他方の同意のもとにのみ、すなわちどちらもただ両者に共通な、一つの意志行為を媒介としてのみ、自分の商品を手放すことによって、他人の商品を自分のものにするのである」

「商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの商品にやどす人として、互いに相対しなければならない」というパラグラフにおける「自分たちの意志」が何をさすかは不鮮明ですが、先に論じた「自分の商品を一般的等価物としたい」ということでしょう。そこで二つの引用を繋げて考えれば、マルクスが主張したいのは「商品の本性の法則は相互の交換にあり、この法則が人間の自然本能を通じて貫かれる」という意味だと思われます。ちょうど自然法則にしたがって人間が行動するように。しかし、これまで述べてきたように、貨幣が先在することによってはじめて商品交換が可能になるとすれば、人間を商品交換に駆り立てるのは、あたかも自然法則とおなじように働く「商品の本性の法則」ではなく、端的に、一般的等価物として他のいかなる労働生産物も手に入れることができる貨幣に対する欲望だと考えるべきではないでしょうか。マルクスが「商品所持者の自然本能」と呼んでいるのは、「商品の本性の法則」が商品所持者に憑依した状態ではなく、貨幣に対する商品所持者の欲望と読み換えるべきだと思われます。

ただし確認しておくべきなのは、第一に、いったん貨幣が生まれると、労働生産物が商品になり、その結果、商品の生産と販売による貨幣の獲得が自己目的化していくことです。そして、その行為が集合的に反復継続されるようになると、貨幣獲得をめざす生産があたかも当然のこと(言い換えれば自然的なこと)のようにみなされるようになりますし、それとともに社会に特有の歪みが生まれます。

第二に、貨幣と商品の一体性です。貨幣は労働生産物を交換する必要性から生まれ、それととも労働生産物が商品になるわけですから、ある社会において貨幣が媒介する商品交換が主要な形態になっていても(つまり資本主義社会であっても)、労働生産物が商品形態以外で交換されるような事態が生まれ、その割合が増大していけば、貨幣の必要性は低減し、その流通量も減少していくことになるでしょうし、論理的には、やがて貨幣が消滅する局面も考えることができます。つまり、貨幣から商品が生まれるとすれば、労働生産物が商品でなくなれば、貨幣もまた消滅することになるわけです。

この事態を少し敷衍すると、「労働生産物が商品形態以外で交換されるような事態」とは、生産が、その生産物の販売(交換)によって得られる利潤が労働者をふくめた出資者全体に配分される生産協同組合(つまり株式会社と違って利潤が資本に回収されない組織形態)のような形でおこなわれる事態ですが、実際にもこのような生産協同組合はすでに現代の資本主義世界内に点在しています。生産協同組合が互いに生産物を交換する場合、それは広い意味で古代の共同体どうしで行われていた物々交換の復原となり、生産物は商品である必要はなくなります。この生産と交換の形態と株式会社に基礎を置く商品市場は長期間並存するでしょうが、前者が増大し、生産協同組合が連合しておこなう生産、交換、消費が経済の主要な形態になるにつれて、貨幣の役割は縮小し、やがては消滅していくことになると考えられます。

とはいっても、商品生産と市場は国内経済で完結しているわけではなく世界市場と深く結合しているので、協同組合的生産と商品市場との並存期間を乗り越えていくには、世界的規模で協同組合的生産のチェーンを構築していく必要があり、そのためには国境を超えた人々との共同作業が要求されるので、多くの困難を乗り越えなければなりませんし、時間もかかることになるでしょう。

6. 物神論の持ち込み

すこし脇道にそれてしまいましたが、ここで本題に戻れば、ではなぜマルクスは「貨幣生成の謎」で躓いたのでしょうか。言い換えれば、なぜ価値形態(I)で商品だけを取り出し、貨幣を排除したのかということです。結論を先に述べれば、マルクスがどうしても「商品と貨幣が人間に対して物神的(呪術的)な力を持っている」ことを証明したかったからだと思われます。なぜならこれまで述べてきたように、貨幣が媒介しない労働生産物と労働生産物の直接的な等価交換では(交換価値が貨幣として独立して表現されていないので)交換過程は透明であり、そこに謎はないからです。さらに歴史的事実に沿って、この等価交換の延長上に貨幣の生成を展望すれば、そこに「商品の本性の法則」ではなく、貨幣に対する人間の欲望を措かざるをえないからです。しかしこれはマルクスにとって都合が悪い。なぜなら貨幣の生成は、商品と商品の関係からはじまる価値形態の法則的な展開結果(ヘーゲル弁証法)にしないと商品と貨幣の物神的な力を導けないからです。

ではなぜ物神的な力を導く必要があったのでしょうか。それは、(1)マルクスにとって最も重要だったのが、資本主義社会は社会的な生産活動が分業を前提にした私的生産として行われる歴史的に特異な社会構成体であり、バラバラに行われる私的生産こそ必然的に商品と貨幣を生み出していること、そして、(2)本来社会的に営まれている生産活動を、商品と貨幣によって人間に回り道をさせる、つまり人間がコントロールできない市場によって生産と消費が調整されてはじめて生産の社会的妥当性が確認されるプロセスを強いる結果、一つは生産の一時的停止、労働者の失業、市場の混乱などを周期的に発生させる暴力的な調整としての恐慌が不可避であること、二つは、あたかも商品と貨幣が本来の生産と流通の姿であるかのように人間の目に転倒して映ること(物神化)を暴き出すことにあったからだと思われます。

これは資本論「第一章商品第四節 商品の呪術的性格とその秘密」で展開されていますが、その中で明瞭に述べられている部分を引用しておきます。

「生産物交換者たちがまず第一に実際に関心を持つのは、自分の生産物と引き換えにどれだけ他人の生産物が得られるか、つまり、生産物がどんな割合で交換されるかという問題である。この割合がある程度の習慣的固定性を持つまでに成熟してくれば、それは労働生産物の本性から生ずるかのように見える。…労働生産物の価値性格は、それが価値量として実証されることによってはじめて固まるのである。この価値量のほうは、交換者たちの意志や予知や行為には関わりなく、絶えず変動する。交換者たちの自身の社会的運動が彼らにとって諸物の運動の形態を持つのであって、彼らはこの運動を制御するのではなく、これによって制御されるのである。互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合をつうじて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、たとえば誰かの頭上に家が倒れてくるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として強力に貫かれるからである、という科学的認識が経験そのものから生まれてくるまでには、十分に発達した商品生産が必要なのである」

結論を急ぎすぎたので、第四節を少し踏み込んで考えてみます。

7. 物神論の脱構築

ここでの問題は、貨幣が媒介する商品交換で、商品所有者を交換へと動かすのは「貨幣への欲望」だとすれば、マルクスが物神論で証明したいと考えていた(1)と(2)は果たしてそのまま受容していいのかということにあります。

マルクスは、商品所有者(人間)を交換過程に誘う、あるいは突き動かすのは「貨幣への欲望」ではなく、他の商品との交換を前提とする「商品の本性の法則」に動かされているからだとしています。つまり、交換の主体は商品所有者(人間)ではなく、商品であり、商品所有者は商品の代行者(マルクスは『商品の番人』という表現を使っていますが)に過ぎないわけです。これは、商品交換が価値の等価交換であることを説明したところで述べられています。

「彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等置することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等置するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかしそれを行うのである」

商品交換が価値の等価交換であることを「知ってはいないが、しかしそれを行う」とは、商品所有者は、無意識的に「商品の本性の法則」に動かされ、他の商品と交換行為を行うということでしょう。この「無意識」が商品と貨幣が商品所有者に対して物神的な力を持っていることを示す言葉になっています。しかし、上の引用文にある「彼ら」とは、商品交換を問題にしている文脈からいって当然商品所有者のことだと考えるべきであり、ここでもそう書いてきましたが、実は引用文とその直後のテキストでは「彼ら」は商品所有者ではなく、「労働生産物を互いに価値として関係させる」「生産物交換者」とされています。ということは、ここで交換と言われているのは商品交換ではなく、商品に転化する前の労働生産物の等価交換ということになるでしょう。そうであれば、そこにはまだ貨幣も商品も存在しないので、「生産物交換者」に対して物神的な力を持つものはなく、そこにはマルクス自身の言葉を借りれば「透明な」関係があることになるでしょう。

貨幣獲得が目的になることとは、貨幣が交換手段ではなく、蓄蔵が主たる目的になること

ここでのポイントは、貨幣への欲望が商品生産を駆動しているとすれば、この欲望が減衰していくのは、生産協同組合による生産物の交換が拡大し、その結果、商品生産が減少していくプロセスを通過することによってでしかないということです。さらに欲望が完全に消滅する事態がありえるとすれば、それは生産協同組合による労働生産物が人口の総消費量をはるかに超えて潤沢に存在しているような事態でしょう。貨幣への欲望が向かう対象である財やサービスはもはや貨幣がなくても入手できるからです。

このプロセスは生産技術の発展をベクトルとする、一つの自然史的な過程のように見えなくもありません。つまり貨幣への欲望は商品が存在する限り、また労働生産物がなお希少である限り人々の中に存続するのであり、そうである以上、本質的に国家や法の力で抑え込むことはできないということです。しかし、生産技術の発展だけではなく、そこには「貨幣の獲得が自己目的化した社会」に対する人々の道義的な(公平あるいは正義の観念による)反発がベクトルとして働いているはずです。私たちは現在も、貨幣の獲得が自己目的化した資本主義社会が、社会が寄って立つ基盤である自然とその資源を破壊し、世界的規模で貧困を拡大し、ブラック労働を蔓延させ、さらにファシズムと戦争を招き寄せることを目撃してますが、それに立ち向かう人々の闘いが世界で展開されています。この二つのベクトルは絡み合いながら、ポスト資本主義社会への道が切り開かれていくでしょう。

疎外論は、妥当なのか?

貨幣の発生をめぐって榎原均氏が重要な問題提起をおこなっています。氏は、マルクスの価値形態論が資本論初版と現行版とでは違っているところがあり、それが商品と貨幣の廃止に向けた社会革命をどう考えるべきかに大きなヒントを与えていると主張したのです。

私たちは価値形態論をたどることで「貨幣の先在性」を仮定しましたが、榎原氏は、価値形態(III)から価値形態(IV)への移行をめぐって、(資本論現行版と異なり)(III)からそのまま貨幣へは移行できないとする資本論初版の論点を重視します。つまり、商品交換者の誰もが一般的価値形態の位置につきたいのであるから、そこでは直接交換は不可能だということ、しかしにもかかわらず商品所有者の無意識の交換行為がおこなわれ、それによって初めて貨幣が生成される、そしてこのプロセスは法的に統制できないのだとされます。

しかし、商品所有者を交換に踏み切らせるのは端的に貨幣への欲望であり、その欲望を法的には統制できないと考えるべきではないでしょうか。

物々交換の場合、そのまま自然成長的なプロセスで一般的等価価値である貨幣を生み出していくことになるでしょう。つまり(III)→(IV)であり、これは現行資本論の立場ですが、しかし貨幣の先在は前提されておらず、このプロセスではじめて貨幣が生成されるとされている点で大きく異なります。

貨幣が先在するとすれば、商品所持者はすでに幾らかの貨幣を所持していると考えるべきであり、それが彼らをさらなる貨幣への欲望に駆りたてると考えるべきでしょう。

貨幣への欲望は倒錯した欲望です。したがって貨幣への欲望を超える情動を組織する組織、運動を対置すべきだす。

ところで榎原氏は、交換の不可能生を乗り越える交換を商品所有者たちに強いるものは何かと問い、そこに事態抽象という概念を導入しています。これは人間を超える力であり、マルクスが「幽霊のようなもの」と形容したものが想定されているのだと思います。ではなぜ事態抽象という力が働くかといえば、商品社会では、交換によってはじめて「価値実態としての平均的抽象労働」が抽出されざるをえないからだと考えられているからでしょう。

ここでの交換とは商品交換ですが、ではこの捉え方は妥当でしょうか。私たちの仮説では、商品交換である以上、すでに貨幣が先在していることになります。だとすれば、「価値実態としての平均的抽象労働」は貨幣のことに他なりません。すでに貨幣が存在しているとすれば、交換行為は貨幣との交換であり、そこでは榎原氏の主張するように日々貨幣が生成されているといえるのでしょうか。むしろ、貨幣の確認(あるいは信任)が反復されていると考えるべきでしょう。

交換行為は貨幣に対する欲望によって駆動されますが、それは貨幣が一般的等価形態であり、どんな商品とも交換可能だからです。では貨幣を廃止するために何が求められるのでしょうか?

労働生産物が商品形態を取らなくなれば、貨幣は必要でなくなります。社会的分業を前提にした労働生産物は必ず交換されることが必要ですが、その交換が貨幣の獲得をめざす必要がない事態が生み出される必要があります。

それは生産が私的に(たとえば株式会社で)行われることなく、社会的需要と(強弱があるとしても)直接的に結びついて行われる事態です。つまり価格がつけられた商品生産が市場によって調整されるという「回り道」をする必要がない社会的生産(協同組合的生産とその連合)として行われる事態です。

(以下メモ)

協同組合的生産の部分的存在とその拡大

私的生産と市場との並存

個人の労働負担分としての労働証書と労働証書による交換

商品・市場と協同組合的生産との並存

前者の生産物は価格がつき貨幣が必要になる

後者の生産物では労働証書で交換できる

並存は、労働証書と貨幣の交換比率を決める必要がある

株式会社による生産が協同組合としての生産に転化する

だが、社会的に計画された生産は、その実務を担当する官僚がコントロールする中央権力を必然的に生むというアナキズムからの批判

そうならないための担保とは何か?

社会的生産では、地域、産業別に生産と消費が把握される必要がある

現在のIT技術、とりわけ仮想通貨発行からはじまったブロックチェーン技術で中央権力不在で社会的生産が可能となるか?

だが、問題は中央権力、官僚の発生だけではない。

そもそもブルジョア的権利とされている職業選択、営業の自由、移転の自由など(一言で市民的自由)が、協同組合的社会で保障できるのかという問題もある。これは社会が「個人」を前提にした契約社会であることから派生したものである。だとすれば、協同組合社会で「個人」の存在を認めるのかどうかが問われることになるだろう。

もし個人の権利として職業選択の自由や営業の自由を認めるなら、新しい企業が生まれることも認めることになるだろう。そうするとそこでは、まったく新しい分野に取り組むブルーオーシャン企業だけでなく、既存の企業と新しい技術などで競合する企業も生まれることになる。

これらの企業の目的は何か?資本主義的生産形態が主要である社会では、当然利潤を獲得することが目的になる。協同組合的生産が生産形態として承認され、かつ一定の社会的力を持つようになっている社会では、企業は株式会社形態と並んで、協同組合形態をとることもあり、その場合は利潤は組合員によって分配される。この場合資本家や株主にとっての利潤ではなく、組合員の生活の向上が、さらにそれを上回る利潤が生まれた場合は、公共部門に寄付されることになるだろう。

だとすれば、将来も、個人の権利は保障できることになる。

次の問題は資本主義の破局、あるいは破産はどこからもたらされるかである。