上記表題が付けられたこの記事は、4月3日付でロシア国営報道機関「RIAノーボスチ」にロシア語で掲載され、同4日に「ウクライナの新しい声」が英訳した上で再録したものを重訳したものである。「RIAノーボスチ」はロシアのウクライナ侵攻の直後に『新世界秩序』を掲載したロシアのプロパガンダメディアである。

『新世界秩序』がプーチンの世界向けのグランドセオリーであるとすれば、『ロシアはウクライナで何をなすべきか』はロシア国内およびウクライナに向けられたジェノサイド扇動パンフレットであり、一読すれば、ナチスドイツの反ユダヤ人プロパガンダとほとんど同じ内容であることに驚かれるだろう。ここでナチスと言われているのは、アゾフ大隊など一部のネオナチではなく、親ロシア派以外のすべてのウクライナ人であり、大なり小なり反ロシア感情を含むそのナショナリズムがナチズムと規定されているのである。およそある国のナショナリズムを破壊と殲滅の対象にすれば、その方法と結果がどれほど凄まじいものになるかをこの記事は示している。まさに戦慄すべき内容である。また、自らがナチス化しながら、相手をナチスとして悪魔化するのはロシアプロパガンダの常套手段である「偽旗作戦」と呼ばれる手法であるが、読者は、この手法が持つ先天的な矛盾が記事のあちこちで露呈しているのに気付かれるに違いない。

現在ウクライナの人たちがなぜ必死にロシア軍に抵抗しているかといえば、もし侵略を許せば、すでにブチャやその他の都市で起こっており、この記事があからさまにその実行を扇動しているジェノサイド(民族浄化)がウクライナ全土で展開されることを知っているからである。後出の「ウクライナの新しい声」編集部のコメントがこれについて以下のように端的に指摘している。

「大多数のウクライナ人をナチスとラベリングした上で、この記事が呼びかけているのは、ウクライナのエリートの抹殺と、ウクライナの『非ウクライナ化』、すなわち、その国家名さえ剥ぎ取り、ウクライナ文化を破壊することです」

だが、ウクライナの人びとがいま直面している闘いは決して他人事ではない。それは私たちの課題と深く繋がっている。その繋がりとは何か、それがどのような性質を持つのかを見極めていくのは私たちに科せられたこれからの課題である。だがこの作業は戦争の後で机上で果たされるようなものではないだろう。いま現在、展開されているウクライナの人びとの命をかけた闘いを全力で支援することから始めるしかないものだ。

冒頭に「ウクライナの新しい声」による前書きがあり、その後に本文が続く。段落と訳注は読みやすいように訳者がつけたものである。本文も文章が重複していたり、繰り返しに終わっている部分は省略し、主語があいまいな部分や意味が不鮮明な部分も思い切って意訳しているので全体として要約となっていることをお断りしておく。

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[編集部前文]

「ウクライナの新しい声」(以下NV)は、ロシアのプロパガンダ報道アウトレットである「RIAノーボスチ」が最近発表した記事の翻訳を再録することにしました。この記事は、ウクライナ人に対する憎悪を広めることを目的としたロシアのプロパガンダの一つであり、ウクライナ全国民を民族浄化にふさわしいロシアの敵としてラベリングするものです。

私たちNV編集チームは、ウクラニア人に対する憎悪を扇動する、本質的にはファシストマニフェストであると私たちが考えるものにプラットフォームを提供したくなかったため、この記事にたして公開するだけの価値があるかどうか議論しました。しかし、ロシアがどれだけ深くファシズムに陥っているかを世界に警告し、ウクライナで民族浄化を実行するというクレムリンの意図を将来の国際裁判所における証拠として提供するために公開することにしました。ただしこの免責事項を明らかにし、かつ記事中の最もひどい虚偽に対する注釈(NVによるファクトチェックとしてNVFCと略記)を付記することにします。

「大多数のウクライナ人」をナチスとラベリングした上で、この記事が呼びかけているのは、ウクライナのエリートの抹殺と、ウクライナの「非ウクライナ化」、すなわち、その国家名さえ剥ぎ取り、ウクライナ文化を破壊することです。かってナチスがユダヤ人、ロマ人、そしてスラブ人を「東の群衆」と呼び、彼らを非アーリア系の劣等人種(untermenshen)とみなしましたが、この記事におけるウクライナ人は、ほぼそれに等しい存在として描かれています。これは純粋なファシズムという以外にありません。

この記事は4月3日に公開されていますが、この日はロシア軍がブチャにおいて少なくとも400人におよぶウクライナ市民を虐殺したことを世界が知った日でもあり、同日にこの記事の掲載した「RIAノーボスチ」は1930年代以来ヨーロッパで見られなかったシニシズムの淵にどれだけ深く沈み込んでいたかを示すものです。このファシストマニフェストは、独裁者ウラジーミル・プーチン政権下のロシアが、ウクライナと世界にとってどれだけ危険な存在かを露骨に示すものです。

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[ロシアはウクライナで何をなすべきか](本文)

昨年2021年4月、我われはウクライナの非ナチ化が必然であることについて書いた。ナチスであり、ロシアの敵であり、そしてロシアを破壊するための西欧の道具であるウクライナは我われには必要ない存在である。現在、非ナチ化は実践的な問題になっている。

人口のかなりの部分(おそらく大多数)がナチス政権に馴染み、その政治に呑み込まれている場合、非ナチ化が必要である。 (NVFC:極右政党はウクライナの選挙で3%以上得票したことはなく、2019年の議会選挙では1議席も獲得していない)

つまり、「政府は悪いが、国民は良い」という理屈はもはや成り立たない。この事実を認めることが、非ナチ化政策とそれに関連するすべての措置の基礎となる。ウクライナはまさにこの状況の下にある。

ウクライナの選挙民が「ポロシェンコの平和」と「ゼレンスキーの平和」を選んだという事実は、ウクライナ人が、直近の2人のウクライナ大統領が選出されたときに示唆していた電撃戦による平和への最短の道に満足しているからだと誤解してはならない。オデッサ、ハリコフ、ドニプロペトロフスク、マリウポリ、および他のロシアの都市で、内部の反ファシスト勢力を宥めるために取られたのはこの方法であったし、ウクライナの俗人たちを完全に満足させたのである。非ナチ化とは、法技術的には戦争犯罪者として直接に処罰を受けることのない大部分のウクライナ人のナチ化に対応するための措置の体系なのだ。

武器を取るナチスは、戦場からあたう限り根絶されなければならない。ウクライナ正規軍と国家親衛隊を区別する必要はないし、これら2つの軍隊に加わった領土防衛隊についても同様である。いずれにせよ、彼らすべてが民間人に対する残虐行為に関与しているし、ロシア人に対するジェノサイドにも等しく責任がある。彼れらが戦時国際法や慣習法に従うことはない。(NVFC:虐待、ジェノサイド等の証拠はない)

戦争犯罪者と活動的なナチスには責任を取らせなければならない。そして、彼らをナチズムの実践に結びつける組織は浄化されなければならない。すなわちこれらの組織の解散と禁止である。しかしリーダーたちとは別に、人口のかなりの部分も責任を負っている。彼らは受動的なナチスであり、ナチズムの共犯者なのだ。彼らはナチス政権を支持し、溺れたのである。 (NVFC:ウクライナの民主的に選出された政府を『ナチス』と表現するのは誤りである)

人口のこの部分に対する処罰は、ナチスシステムに対する正義の戦争がもたらす苦難を背負うことである。この処罰は、民間人に対する細心の注意を払いつつ実行されるナチスシステムとの正義の戦争において避けられない困難に耐えることによって下される。

人口のこの部分のさらなる非ナチ化は再教育によってなされる。それはナチス的態度をイデオロギー的に抑圧すること、厳格な検閲を方法とすることになるだろう。再教育は、たんに政治的領域だけに限られず、文化と教育の領域においても実施される必要がある。なぜなら、人口の多数をナチ化する計画は、ロシアに対するナチ体制の勝利によって得られる贅沢、プロパガンダ、暴力とテロ、そしてドンバスで反乱に立ち上がった人びとに対する8年間におよぶナチウクライナの戦争などによって周到に準備され、実行されたのであり、それはまさにこの文化と教育を通じてであったからだ。

非ナチ化は勝利者(征服者)によってのみ実行できる。なぜなら①非ナチ化プロセスは無条件で管理されていなければならないし、②この管理を容易にする権限を持つ者が存在しなければならないからである。この点において、非ナチ化の下にある国は主権を持つことはありえない。言い換えれば、非ナチ化を主導する政府であるロシアは、リベラルなアプローチによって非ナチ化を実行することはできないということである。

非ナチ化を実行する党のイデオロギーが、その対象となっている党によって問題とされることはおよそありえない。ロシアが非ナチ化の必要性を主張するのは、クリミアのシナリオがウクライナ全体で機能しないからである。実際、このシナリオの非現実性は既に2014年において、さらにドンバスの反乱で明らかになっていた。以降、ナチの暴力とテロに対する8年間におよぶ抵抗によって(親ロシア派の)内部的結束が強まり、ウクライナへの統一や結合を集団的に明確に拒絶することが可能となったのである。ここでいうウクライナとはそれ自身ナチ社会と定義されるものである。

非ナチ化は、非ナチ化の条件の下で生まれ、成長し、成熟しなければなならず、一世代以下の時間では実現はできないであろう。ウクライナのナチズム化には30年以上かかっており、少なくとも1989年から始まっていると言うべきである。この時に、ウクライナのナショナリズムが正当かつ合法的な政治的表現として受けとめられ、ナチズムに傾斜した「独立」運動を主導するようになった。

ウクライナのナチ化の特徴は、不定形で両義的であることだ。そのことが、あたかもナチズムが「独立」と、「ヨーロッパ的」(西欧的であり、親アメリカ的)な繁栄(実際には腐敗であったが)への道に向かう動きであるかのような化装を許してきた。彼らの弁解はいつも「我われはいかなるナチズムと無縁である。あるのは個人の偶発的な行き過ぎだけである」というものだ。

とはいえ結局のところ、一つの強大なナチ政党も、総統も、完全な人種差別法も存在していないのも確かである(あるのはロシア語を抑圧するというその縮小版だけである)。その結果、ナチス政権に対する野党も、抵抗も生まれなかった。しかし、これらの事情はウクライナのナチズムを20世紀前半頃のドイツナチズムの「軽量版」にするわけではない。それどころか、ウクライナのナチズムは、「典型的な」境界や制限とは無縁であるために、ヨーロッパや、その発展形であるレイシズムを抱えるアメリカなどを含むすべてのタイプのナチズムの基本的な基盤として自由に展開することができたのである。だからこそ非ナチ化は、「NATO-no、EU-yes」のような妥協的なかたちで実行されてはならないのだ。

西欧は、ウクライナのナチズムの設計者、情報源、そしてスポンサーであり続けている。当時、民族主義バンデラ派幹部と彼らの「歴史的記憶」は、ウクライナをナチ化するためのツールの1つに過ぎなかった。しかしだからといってウクルナチズム(Ukrnazism)は小さいわけではない。世界とロシアに対する大きな脅威である点で、むしろヒトラーのドイツナチズムよりも大きいと言わなければならない。

「ウクライナ」という名前は、ナチス体制から解放され、完全なかたちで非ナチ化された国家組織の称号として相応しいものとは思われない。ナチズムから解放された空間に新たに創建される人民共和国(people’s republics)は、経済的自治と社会的安全、そして社会支援システムの回復と近代化の実践によって成長すべきであり、実際に成長していくであろう。

新生ウクライナの政治的願望は中立ではありえない。ロシアの敵として振舞ってきたことの贖罪は、新生ウクライナがその回復、復活、発展の過程でロシアに依存することによってのみ達成することができる。新生ウクライナの領土において(西欧による)「マーシャルプラン」は許されない。非ナチ化と平行しない限り、イデオロギー的または実践的な意味での「中立」はありえない。新たに非ナチ化された共和国において、非ナチ化を促進するツールである幹部と組織が頼ることができるのは、ロシアの直接的な権力と組織的支援のみである。

非ナチ化は必然的に非ウクライナ化として表現されることになるだろう。ウクライナは、マロロシア(Malorossiya)とノヴォロシア(Novorossiya)の歴史的領土における人口ととらえられるべきであり、ソビエト時代に作り出された民族要素の人工的な分割は拒絶されるべきなのだ。この人工的なウクライナはエスノセントリズム共産主義超大国の道具として利用されたが、ソ連の崩壊後、所有者がいないままでいられなかった。そして人工的に作り出された形態のままで、別の超大国、すなわち西欧に引き渡されたのである。したがって、ウクライナを明白な国境線に戻すとともに、政治的機能を制限することが必要なのだ。

グルジアやバルト三国とは異なり、歴史が示すように、ウクライナは国民国家の形態で存在することはできない。もしそのように「構築」しようとすれば、必然的にナチズムを導くことになる。ウクライナ主義なるものは、人工的な反ロシアの構成物であり、独自の文明を持たず、外国文明の従属要素に過ぎないのだ。

非ナチ化は、民族主義であるバンダル主義を除去するだけでは十分ではない。バンダル派は、ナチウクライナの実現を目論むヨーロッパの計画の一つの要素であり、その計画を隠すためのスクリーン、マスクに過ぎない。したがって、非ナチ化は必然的にウクライナの非ヨーロッパ化を伴なうのである。バンダル主義者による支配は清算されなければならない。彼らの再教育は不可能であるからだ。また、バンダル主義者を行動であるいは不作為で積極的にか受動的にか支援するような社会的な「沼地(swamp)」は、戦争の困難を経験を歴史的な教訓とし、その罪の贖いとして受け止めなければならない。

他方、ナチス政権を支持せず、それに苦しめられ、さらにこの政権によって引き起こされたドンバスにおける戦争で苦しんだ人びとは、統合され組織化されなければならず、新政府の垂直的および水平的な柱にならなければならない。

特別軍事作戦の目標としての非ナチ化とは、その作戦の範囲内で、キーウ政権に対する軍事的勝利、武装したナチ支持者からの領土の解放、矯正不能なナチスの清算、戦争犯罪人の捕獲として理解されているが、同時にそれは、勝利のあとに続く平時の非ナチ化を進めるためシステムを作り上げることも含んでいる。後者は、地方の自治政府、法執行機関、および防衛機関の組織化から始められなくてはならない。これらの組織は、新しい共和国の創設するための基礎として運用されるが、ウクライナの非ナチ化のためのロシア部門(新設されるか、たとえばRossotrudnichestvoを改組するかの形態で)と緊密な協力関係に置かれることになる。これらの作業は、ロシアの管理下で、非ナチ化に向けた共和国の規制の枠組み(立法)の採用、解放された地域における国境の確定、ロシア法とその法的管轄の適用、解放前のウクライナの人道に対する罪を裁くための法廷の創設と平行して実行される。この点で、ロシアはニュルンベルク裁判の保護者として行動するべきである。

上記のすべては、目標である非ナチ化を達成するためには、テロ、暴力、およびイデオロギーの圧力から解放された後、また情報閉鎖から解放された後、人びとの支持を獲得し、彼らをロシア側に止めるために必要なものである。(NVFC:ロシアのメディアとは異なり、ウクライナのメディアは大半が無料であり、反対派に対する組織的な政治的弾圧はない)。

人びとが軍事行動のショックから立ち直り、ロシアの「見捨てることはない」という長期的な意図を確信するまで、しばらく時間がかかるのは避けられない。正確に、どの領土の、どの地域で人口の臨界量が必要な多数を占めるかを予測することは不可能である。「カトリック諸州」(西ウクライナの5つの州)は、親ロシア地域のグループに加わることはありそうにない。だが、両者の分離線は経験によるルートで見つけられるだろう。彼らはロシアに対し敵対的であり続けるだろうが、それでもナチズムが法的には禁圧され、中立と非武装を強制された形であってもウクライナであることに違いはない。

とはいえ、西ウクライナはロシア嫌いたちが向かうところになるだろう。このウクライナ最後の残余部分に中立を保証するのは、もし上記の要件が満たされない場合、即時の軍事作戦が必要になることを意味する。それゆえ、分離線からロシア国境までは、その本質において反ファシストであるロシア文明に統合される可能性を持つ潜在的領域となるだろう。

軍事作戦として始まったウクライナの非ナチ化は、平時においても軍事作戦の進行と同じ論理に従うだろう。各ステップで、不可逆的な変更を加えることに成功する必要があり、この変更は次のステップの構成要素になる。したがって、非ナチ化に必要な最初のステップは次のような作業によって構成にされることになるだろう。

●武装したナチス編成体(ウクライナ正規軍や、いかなる武装編成隊も含む)、およびそれらを支援する軍事、情報、教育のインフラの清算

● 反乱を起こしたナチグループのテロから人びとを守ることを目的とする、解放された領土における自治組織と法執行機関(安全と法秩序維持の両面)の創設

● ロシア情報を伝えるためのスペース確保

● ナチイデオロギー的態度を含むあらゆるレベルの教育資料、および編成された教育プログラムの押収

● 戦争犯罪、人道に対する罪、ナチスイデオロギーの普及、ナチス体制の支援における個人責任を追求するための大規模な調査

● 浄化のため、ナチス政権の共犯者の氏名を公表し、ナチ活動に対する処罰の一環として破壊されたインフラを修復するため強制労働に従事させること(ただし、死刑または禁固刑を宣告されない場合)

● ロシアの助言の下で、地方レベルで「草の根」の非ナチ化に向けた規範的行動、およびあらゆる形態のナチスイデオロギーの復活をめざす活動禁止の規制採用

● ウクライナナチによる犠牲者の記念碑、記念徴表物、記念館の建立と制作、およびウクライナナチと戦った英雄の記憶の不滅化

● 新しい人民共和諸国の憲法における一連の反ファシストおよび非ナチ化規範の採用

● 25年間、継続的に運営される非ナチ化組織の創設

ウクライナの非ナチ化においてロシアは同胞を持っていない。というのはそれが純粋にロシア自身の課題であるからだ。その課題とはバンデラ主義者によるナチスウクライナの根絶だけでなく、何よりも西欧の全体主義、すなわち文明の衰退と破滅を導く強制的なプログラム、西欧と米国の超大国への隷属のメカニズムとの対決であるからだ。

だが、ウクライナの非ナチ化計画を実現するためには、ロシアの生活自体に残存する親ヨーロッパ的、親西欧的な幻想を最終的に取り除き、歴史的なヨーロッパ(旧き世界)の価値の最後の保持者、最後の防衛者としての役割を受け入れる必要がある。西欧はこの価値を最終的に放棄したのであり、歴史的ヨーロッパを敵とするいわば自分自身との戦争で失ったのである。

この戦争は20世紀全体を通じて広がり、世界大戦とロシア革命として出現したが、この二つは切り離すことができないほど互いに結びついていた。ロシアは20世紀に西欧を救うためにできる限りのこと行った。第一に、西洋の重要なプロジェクトであった代替資本主義、つまり赤い社会主義プロジェクトを助け、その国家形態を実現した。第二に、西欧文明の危機が生み出した怪物であるドイツナチズムを破壊した。ロシアの利他主義の最後の行為は、西欧に差し出した友情の手であったが、ロシアが受け取ったのは1990年代における恐るべき打撃であった。

ロシアが西側のためにしたことはすべて自身のポケットから出したものであり、それは大きな犠牲を伴なうものであった。だが西欧は最終的にこれらの犠牲すべてを拒否し、西欧の危機を解決するためのロシアの貢献を切り下げ、ロシアが無私で提供した援助を逆恨みし、ロシアに復讐することを決定したのだ。これに対してロシアは今、西欧の運命を気にかけることなく、その遺産の他の部分を活用しながら、すなわち脱植民地化の世界的なプロセスをリードしながら独自の道を進もうとしている。

このプロセスの一環として、西欧が何世紀にもわたって抑圧してきた国々とのパートナーシップと同盟関係を構築し、彼らが二度とそのくびきに苦しまないようにすることが課題となるが、ロシアはそれを実現する大きな可能性を持っている。ロシアの犠牲がなければ、これらの国々は解放されることはなかったであろう。

4/16/2022