私たちは『ノード連合のためのノート』でこう書いている。ここで「死の衝動」とはファシズムをさしている。
「もし理性や言葉が『死の衝動』の前には無力であるとすれば、私たちの手元に残されているものは何か。それは、たとえ根源では『死の衝動』と繋がっているとしても、他の衝動しかないだろう。
では他の衝動とは何か。私たちはそれは『義憤(righteous indignation, outrage)』や『同情(compassion)』や『悲哀(grief)』だと考える。いかにも素朴で単純なものなものに違いない。
しかし、これらの情動は『同一化に向う死の衝動』と同じ生の基盤の上で、それと拮抗する力を持っている。もっと単純な別の言葉を使えば「怒りと悲しみ」の情動ということになるだろう」
しかし、なぜ言葉ではなく情動なのか?
一つは、私たちひとりひとりが社会的に追い込まれ、孤立し、今や依るべきものが自分の身体と情動しかなくなりつつあることから来ているだろう。ほとんどすべてを剥ぎ取られ身体と情動しか残っていない状態とは、いわば「動物としての個体」にまで還元されているということである。
「動物としての個体」ももちろん言葉を発する。しかしその言葉は叫びであり、散文ではなく、詩になるだろう。人びとの間で問題になるのは、論理ではなく、文体であり、その強度になる。
もう一つは、あまりに多く嘘を聞かされ、あまりに多く論理の破産を目撃してきたので、私たちがもはや言葉や論理に信を置かなくなっているという歴史的理由があるだろう。言葉は嘘を真実と偽ることができる。ちょうどジョージ・オーウェルが『1984年』で、党であるビッグブラザーに掲げさせたスローガンがそうであるように。
・戦争は平和である (WAR IS PEACE)
・自由は屈従である (FREEDOM IS SLAVERY)
・無知は力である (IGNORANCE IS STRENGTH)
また、言葉はある一つ事態を100の物語として語ることもできるのだ。
だから人びとのこころに響くのは、情動の叫びであり、強度のある文体なのだ。もし論理や理念が人びとを現在のシステムに囲いこむこと(領土化)であるとすれば、ただ情動だけが、この囲い込みから離脱し、新しい繋がりを呼び込むことができる(脱領土化)。
もちろん私たちは何かを語ることから完全に自由になることはできないし、言葉(ロゴス)に呪われた存在である。しかし、叫びと文体が問題になるとは、始まりに既に終わりが含まれるウロボロスの蛇に転化してしまうような論理(物語)ではなく、情動に導かれ、尻切れトンボだったり、一貫性を欠いていたり、脱線したりする半論理こそ人びとのこころに届くということだ。
そして言うまでもなく、情動に導かれた身体とは、「行動」として表現されるものであり、「動物としての個体」にまで追い込んだものへの反撃、たたかいとなる。このたたかいの最中で、叫びが新しい言葉(新しい言葉のアレンジメント)を獲得することになるだろう。
「問題の核心は形相や質料にあるのではないし、テーマにあるのでもなく、力、密度、強度にあるのだ」(『千のプラトー』/ドゥルーズ, ガタリ)