「ノード的」アカウントでツイートしたものをまとめたものです。走り書きにとどまっているので近いうちにもうすこし補足するつもりです。

1964年に林房雄が『大東亜戦争肯定論』を出し、「明治以降、日本は欧米帝国主義に対抗せざるをえず、この100年戦争の掉尾となった対英米戦争も避けられなかった」と主張し、戦前を肯定しようとしたが、それに対し、たとえば山田宗陸は1965年に『危険な思想家』で林や三島由紀夫、江藤淳らを批判し、戦後体制を擁護して「それでも戦後の虚妄に賭ける」と反論した。

憲法を頂点とする戦後体制が戦勝国であるアメリカの占領によって形づくられたことは否定できない。国民主権も、議会制民主主義も、財閥や軍の解体も、農地改革も日本人が自分たちの手で勝ち取ったわけではない。

法の支配、三権分立を根本的なルールとして、主権者である国民が国家の手足を縛ろうとするのが立憲国家=近代国家であるとすれば、明治以降の日本は、民権運動から大正デモクラシーまで近代国家をめざそうとする人びとのたたかいが途中で押しとどめられ、「半近代国家」にとどまっていたのであり、敗戦=アメリカの手によってはじめて近代国家の形式を整えることになった。

戦後体制は人びとが自らの手で勝ち取ったのではないという点で、形式にとどまり、そこに人びとの血と魂が込められていたわけではない。もし日中戦争、英米戦争が避けるべき戦争であり、その意味で誤りであったとすれば、戦後それを正すために、確かにアメリカにどう対峙すべきだったかという大きな問題はあったとしても、私たちの自力で明治の民権運動からはじまるたたかいを継承しつつ、戦前を精算する革命(とりあえず民主革命と呼ぶ)に等しいたたかいを展開すべきであっただろう。

[なお補足すれば、日本の対英米戦争を列強帝国主義への抵抗、反撃として正当であったとする林の立場は、どういう角度から見ようと、みずからが帝国としてアジア圏の植民地化をめざしたものであることに目を覆うものであり、とうてい認められないだろう]

だが、残念ながらこの革命は起らなかったし、近代がアメリカ占領軍に与えられたものである以上、「戦後はその大部分において虚妄であった」といわざるをえない。だが、ここで道が分かれる。形式にとどまっている近代(戦後)をまるごと精算しようとするのか、それともこんどこそこの形式に私たちの血と魂を入れようとするのかという二つの道だ。

近代の精算、つまり明治からの連続的な体制に戻ろうとすることは心情としてはありえても、政治的にはありえない。たとえば、戦後の虚妄を鋭く自覚していた三島由紀夫や江藤淳は天皇を中心にした国家へ回帰することを夢みたが、もちろんこの夢はかなえられることはなかった。大部分が虚妄であったとしても戦後体制=近代の一部は人びとによって支えられていたからである。だから「与えられた近代の制度をどう我がものにするか」しか道はない。問題はそれをどう実現するかだろう。

近代国家の土台にはどんな国家であっても歴史や伝統やかっての共同体への人びとの郷愁があるとすれば、まずその土台につかなければならない。土台とはナショナリズムと重なるものであり、土台につくとは人びとの生活と思いから生まれ自然発生的なたたかいの渦中で活動するということである。このたたかいを通して「近代の制度を維持しつつ、どうそれをより実効的なものに改革していくか」が課題になるだろう。人びとの下からのたたかいで、形式に魂を入れていくべきであり、近代=民主革命の徹底化と言えるだろう。

そして、近代の制度は近代の遺産であると同時に、近代を超える側面を持っている以上(たとえば普遍的価値とみなされる人権の保障や直接民主制、地方自治制度など)、近代革命の徹底化はある局面、ある条件下、あるタイミングで近代を超えていく人びとの新しいつながり(新しい共同体)を生み出すだろう。また近代が資本主義社会である以上、この新しい共同体は資本主義の枠を越えた生産と消費を土台にするものになるだろう。

ここで最初の林と山田の論争に戻れば、そのどちらでもなく「戦前を肯定的に否定し、戦後を否定的に肯定する」ことが必要だということになる。背後にあるのは、敗戦で歴史は断絶していないし、またさせてはならないということである。
以上で述べたことは、80年代のアメリカにおけるリバタリアニズムとコミュタリアニズムの論争とも接続している。契約国家論をベースとするリバタリアニズムは個人の自由を最大の価値とするが、後者はそれを抽象的だと批判し、人間はなんらかの共同体に属し、その規範に制約されているとする。

リバタリアニズムは確かに抽象的な個人を前提にしていて、主張する政治制度は形式である。しかしコミュ二タリアニズムは、共同体の上位価値を設定できないため共同体が退廃的になるとき(ファシズム)の歯止めを欠いている。

だから、どういう論理構成をとるにせよ(たとえば自然権など)、個人をベースとする形式主義的な政治システムを守ることを前提に(リバタリアニズム)、人びとの自然的で、実質的なあり方(コミュタリアニズム)、その息吹をどう形式に吹き込んでいくかが課題になるだろう。その限りでこの二つの考え方は二律背反の関係にはない。

以上の立場は、どこまでも形式にとどまる「議会制民主主義絶対派」と、また形式=近代を捨て去り、ひたすら虚妄の作為的な実質だけを追い求める「共同体派」(ファシズムを含む)と区別されることになる。(未完)