在特会などに代表される在日韓国人、朝鮮人に対する排外主義的なレイシズムが台頭し、それに対峙し、反撃する人びとのたたかいも現在展開されている。このたたかいを「民族差別の元凶である日本国家に向けられていないから、結果としてレイシズムに加担することになる」と批判、敵対する自称サヨクの人たちがいる。すでにブログでも彼らの反動性を批判しているが、ここでは社会運動に対する彼らの誤ったスタンスについて言及したい。連続ツイートに加筆したもの。

目前で展開されている「暴力としてのレイシズム」に対抗するため立ち上がった人たち(そしてその背後にはそれを支持する無数の人たちが存在する)の「いま、ここ=現在」のたたかいには「これから」のたたかいが潜在している。

「これから」は達成されるべき課題として彼岸にあるものではないし、何かの理念が実現されていくプロセス(歴史)の一段階としてあらかじめ読み込めるようなものではない。

だから「これから」のたたかいがどう展開されていくかは、ひとえに「現在」のたたかいいかんにかかっている。誰も「これから」のたたかいがどうなるか、つまり敗北するか、勝利するか、短期で決着がつくのか、長期戦になるのか分からない。誰も歴史の神にはなれないからだ。しかし「現在」のたたかいの中からしか「これから」を掴めないことだけは確かだ。

「現在」のたたかいの外にいて「これから」のことなど分からない。立ち上がった人たちが、レイシストとの攻防の中で、学び、繋がり、次のたたかい方を考えだしていく流動的なプロセスの中からしか、「これから」は見えてこない。

それはたたかいの中で、人びとの認識が変化し、変身していくからだ。その変身の過程で新しい発想と繋がりが可能になり、それに沿ってたたかいも新しい展開を見せるだろう。

もちろん人びとのたたかい方や陣形が変わっていけば、敵である排外主義、レイシズムの側も変容していくだろう。つまり、敵と味方の境界線も流動していて、常に新しい線引きがおこなわれていく。

あらかじめ「たたかいは敗北するに決まっている」とか、「レイシズムを強化するだけだ」とか「レイシズムに加担することになる」とかを冷笑的に語り、「いま、ここ」を彼岸化する自称サヨクの人たちは、結局のところ、語る言葉とは違って人びとの力と可能性(潜勢力)を信じてはいないのだ。

彼らにとって、新しく生まれてくるたたかいは、だからいつも外から突然「晴天の霹靂」のように現れるものであり、自分たちの青写真=理念に沿っていないので「妨害する」とか、「潰す」ということになる。このような倒錯は彼らが宗派であり、カルトであることを示すものだ。

他方、「いま、ここで」たたかっている人びとは、彼らと逆に、突然出現してくる新しいたたかいを双手をあげて抱擁するだろう。