1848年の『共産党宣言』にならって、私たちは、「一つの妖怪が世界に現れている。ゾンビという妖怪が。地球上のすべての権力がこの妖怪を打ち倒すために同盟を結びつつある」と宣言したい。

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ゾンビが人を惹きつけるのは、国家と社会が押しつけてくる重圧から、きれいさっぱり離脱したいという「絶対的な自由」への欲望を誰でも胸のうちに抱えているからだろう。

同時に、死者であるゾンビはいっさいの差別を知らないため、たとえ見知らぬ他人であっても、また社会から憎悪され、排除された人びとであっても、彼らと繋がり、共にもっと自由に生きたいという、「新しい共同体」への思いが誰にもあるからだろう。

ゾンビの属性は「既に死んでいる」というただ一点だけであり、民族も、人種も、性別も、年齢も、もちろん生前の地位や名誉も、まったく意味を持たない。彼らの世界では「死はすべての者を平等に扱う」という原理が貫かれている。

人は恐れ、憎み、嫉妬し、裏切り、差別し、あるいは裏切られ、差別され、また希望や幻想を持つが、死者としてのゾンビにはこれらの苦しみとは無縁である。

彼らはいっさいの国家管理から離脱しており、定住の地をもたず、領有せず、沈黙のうちに目的地もなく、あらゆる場所を自由に彷徨する。ゾンビたちを動かしているのは、ただ一つ生きた人間の匂い、すなわち、未来の同胞の匂いだけだ。

国家は彼らを、人権を持たぬ生ける死者として(だからもはや市民ではなく、誰がゾンビを抹殺しても殺人罪には問われない)、「強制収容所」に囲い込めば増殖を抑えられると考えている。しかし、その試みは失敗を運命づけられている。ゾンビはかならず権力が囲った収容所を乗り越えて行く。というのは、強制収容所の外部たる国家の内部からつぎつぎとゾンビが発生し、強制収容所の内と外の境界が無化されてしまうからだ。

彼らを収容したり、コード化したり、領土化することはできない。

ゾンビは人間の生と、生の形式すべてを全面的に管理、監視しようとする腐敗した国家のただ中から、最底辺から頂上に君臨する権力中枢にいたるあらゆる領域から生まれる。家庭や街頭から、職場から、そして政治家や国家官僚たちの中からも。

国家が機能する領域のただ中からゾンビが生まれる以上、ゾンビを閉じ込め、対抗すために、国家はみずからに死刑宣告を下さなければならない。だが、権力を握っている者たちがみずから権力を手放すことはない。だから、国家とゾンビとのたたかいは、国家が消滅するまでの「永続戦争」となる。

権力を持つ者たちが倒しても倒しても、津波のように押し寄せてくるゾンビには、もはや人為的な国境はなく、そこから溢れ出し、より大きな群れを形成していく。ゾンビは国境を無化し、超えていく世界軍団なのだ。ゾンビは、世界に浸透することで、いったん世界を破壊し、地球を作り変えていく。

ゾンビは、国境だけでなく、人びとの身体と生そのものを管理する国家のすべての権力と、すべての法を無化する存在である。だから、彼らは市民でも、国民でもない。第三の、国家が消滅する彼方に存在する、地球の新たな住民なのだ。

押し寄せるゾンビの群れは、資本主義の最後に来るであろう絶望的な、死が蔓延する世界のありかたを体現している。資本主義の最後の国家形態、すなわち死をめざす国家とはファシズムであり、ゾンビが大量に生まれ、国家との決戦が開始されるのは、ファシズムが勃興し、権力を狙いはじめる時からだ。だが彼らは、さらにその先に来るかも知れない新しい世界、地球の一部として地球と和解した新しい生の予兆でもある。

まるでもっとも深い絶望の中にこそ希望があるかのように。あるいは、いったんは国家と社会のあらゆる管理体制をご破算にする死と破壊の世界をくぐり抜けないと、新しい生と共同体が不可能であるかのように。

2010年代の今日、資本主義とそれを支える国家群は、地球上で、超過利潤を獲得するための未開の領土と労働力を失いつつある。その行き着く先は、それぞれの域内の人びとのより一層の、過酷で残酷な搾取であり、それは国家を「1%の特権的な有産者対99%の無産者」の内戦に導く結果になる。これらを合理化する「新自由主義」は資本家と国家官僚たちの最後のイデオロギーなのだ。

工場や事業所は、法によってカモフラージュされていても事実上監獄となり、街頭は警察が全面的に管理し、人びとの集会は禁止され、戒厳令が発令される。だが、それにもかかわらず、現在、世界のあちこちで99%の人びとが資本と国家に公然と叛旗を翻しはじめている。内部の監獄と外部の強制収容所から、ゾンビのたたかいが始まっている。ゾンビの反乱と彼らとの内戦は世界的であり、かつ永続的である。

資本と国家は、この過酷な内戦を勝ち抜くために、より徹底的に人びとの全面的支配に向かわざさざるをえないが、それが人びとの国家との「同一化」をめざすものである以上、最終的には「死の世界」を招き寄せることになる。だから、ゾンビとは、ファシズムとの内戦の過程で不可避的に生み出され、排除され、隔離され、殺害されていく者たちの形象に他ならない

国家との「同一化」がなぜ「死の世界」を招き寄せるのか?

私たちは既に次のように指摘した(『ノード連合のためのノート』)。「人間のあいだの差異は自然的なものであり、避けられない人間の属性であるのに、それを消し去り、すべての人間を同一化しようとすること自体が、無理で無謀なこころみであり、暴力をもってしか実現できない。そしてこの暴力はかならず死へとエスカレートする。同一化に向かう欲望の起源は『死への欲望(タナトス)』である」と。

だがゾンビは、国家的、法的に無とされ、死者であるからこそ、「同一化」から逃れており、逆に国家を無で呑み込んでいくことになる。無からこれまで誰も体験したことのない新しい生の形式が生まれる。この「新しい生の形式」とはどんなものなのか。それはたぶん単純な生への甦りではなく、ザパティスタ民族解放戦線の副司令官マルコスが語るように、常に死ととともにある、死を内在化した生だろう。

「逆説的だが、ここでは死はその悲劇のマントを脱ぎ始める
死は日常のことになり、その神聖さを失う
ちょうどテーブルに一緒に着く旧知の友人のようなものだ」

国家はみずからを死亡させるためにこそ、最終的にその内部からゾンビを生み出す。資本主義と国家の死滅とゾンビの生成とは一対の出来事なのだ

ゾンビは話せない。ただ叫ぶだけである。だから資本や国家がそうするような形式で、つまり命令として機能する言語では彼らを抑制できない。彼らはあらかじめ言語を、したがって論理とは無縁なのだ。

そして彼らは階級ではなく、生ける死者として、無の存在である。だからマルクス主義者たちがそう望んできたように、ゾンビは千年王国的な共産主義社会を作り上げはしないだろう。言葉を話さぬ、無としてのゾンビに「革命の物語」は無縁だからだ。

ゾンビは、人間の論理を超えた「群れとして存在する情動的な動物」であり、彼らのたたかいは決して予定調和的ではありえない。いつも予測を超えた「出来事」として生まれる。たとえそれが誰も体験したことのないような「新しい共同体」を生み出すとしても、それは結果であり、誰も前もってその形態も時期も知りえない。

ホッブスは、国家の外で生きることは「人が互いに狼となり、恒常的な戦争状態に置かれる」(『リバァイアサン』)ことだと述べている。だが国家の外に無権利者として排除されるゾンビは、死者であるために互いに狼とはならない。死者としてそれぞれが単独者であり、互いに関係しない。だが関係しないかたちで関係し、群れを形成する。なぜなら、言葉ではなく、彼らの内にある怒りと悲しみと憎しみの情動の波が叫びによって伝播し、他者を振動させ、呼び寄せるからだ。

かってニーチェはこう書いた。

「彼らは運命のように、理由もなく、理性もなく、遠慮もなく、口実もなくやってくる。稲妻の速さでそこに現れる。彼らはあまりに恐ろしく、あまりに突然で、あまりに説得的で、あまりに他者なので、全く憎悪の対象にさえならないのだ」(『道徳の系譜学』)

ここでいう「彼ら」こそ、誰もが殺害できる最も脆弱な存在でありながら、同時に無敵でもあるゾンビであるだろう。

ゾンビは生ける死者であり、恐るべきものとして社会から排除されるが、人びとにとって外部の敵ではない。人はゾンビに噛まれ、感染するとゾンビに転化(変身)してしまうのであり、だからゾンビは外部的でありながら、同時に内部的な存在なのだ。つまりゾンビによって生と死が反転する。「Living Dead」と呼ばれたりするのは、ゾンビが生と死の境界を自由に往還する存在であることを指し示している。司令官マルコスの言葉はこの事態を語っているだろう。

「私たちはふと、自分が生と死の間の道を歩いていること、
生と死の境界線の淵を歩いていることに気づくのだ」

彼らに接触すると感染し、たちどころに変身し、死の世界に移行しまうところに人は、とりわけ生きる者たちの生を監視、管理し、秩序づけることで権力を握っている者たちは恐怖する。彼らにとってゾンビこそ「許されざる敵」として外部へ排除し、隔離し、最終的には殲滅すべきものとなる。感染によって国家と社会が滅亡しないために。いや正確にいえば自分たちが滅亡しないためにである。

だが、無名の人びとにとってこの死への変身は恐怖であると同時に、希望でもある。ゾンビに変身すればすべての拘束と負債から逃れられ、かつ自分たちを秩序づけ、コード化し、狭い小世界(事実上の監獄)に幽閉してきた者たちに、もはや何の制約もなく思う存分「報復」できるからだ。

だから人びとは、最初は恐怖の対象であったゾンビにいつしか「友情」に似た感情を持つようになり、やがて進んでゾンビの群れに身を投じ、死者への変身を望むようになる。

ドゥルーズとガタリによれば人間の自然的原基である「器官なき身体」は「死の本能」そのものと捉えられている。すると、ゾンビこそ「器官なき身体」である。ゾンビは「不動の動者」であるからだ。同時にそれは、生と死を往還する存在として、国家の外部に追いやられながら絶えず内部から生み出される存在として、国家との永続戦争をたたかいぬく「戦争機械」でもあるだろう。

あるいはまたアガンベンのいう「剥き出しの生」こそゾンビである。人権とは無縁であり、「誰でも殺害可能で、しかもいっさいの祝祭も与えられない」ゾンビは、国家権力の根拠を照らし出し、かつそれを突き崩し、無化する存在なのだ。

かってマルクス主義者たちは、「政治革命のあとには、国家の死滅を実現するためにこそ、無産であるプロレタリア階級の独裁が必要だ」と過渡的国家を肯定し、弁明したが、もちろんこの国家は過渡的どころではなく、永続的に人びとを抑圧する全体主義国家となった。だが群れとしてのゾンビはおよそ国家なるものを、最初から無化するのであり、一切の権力とは無縁のままなのだ。死者はどこまでも単独者であり、およそ死者に対して独裁することは不可能である。

私たちはこう言っていいだろう。ゾンビは、私たちの絶望と希望の化身として、私たち自身に他ならないと。さらに進んでこうも言いたい誘惑にかられる。ゾンビのように生き、反乱せよ、と。

ゾンビは容易には死滅しない。決定的なダメージでないかぎり、たとえ身体的な損傷を受けても、再び、三たび、彼らは「生ける死者」として甦ってくる。つまり、地球環境がなんらかの理由で大きく変化したり、世界核戦争や原発事故の連鎖などカタストロフィックな悲劇に襲われない限り(出来事として、その可能性はゼロではない)、ゾンビ革命が最終的に勝利する、つまり「資本主義と国家の消滅と、群れとしてのゾンビの勝利」そのものは確実に訪れるだろう。これは私たちにとって、まことに大きな希望である。

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2017