『ノード運動のためのノート』で、私たちは、「人間の尊厳と自由を侵害する者たちとたたかう」と宣言しています。そして資本主義制度のただ中で展開されるそのたたかいの中から生まれるであろう未来の新しい共同体について、「それはあらかじめ予知できないし、青写真を描くこともできない」と主張し、自分たちを「不可知論にたつプラグマティスト」と自己規定しています。
また『民主革命からその向こうへ』では、たたかいのはじまりを「民主主義の徹底化」ととらえています。
この立場と考え方は、どのような既存の政治思想にも依拠せずに、これまでのたたかいの経験と、現在さまざまな領域で展開されているたたかいから学んできたもので、きわめて経験的なものです。だから、これまでの政治思想のマトリクスにはなかなか収まりません。
これまでの政治思想、たとえばマルクス主義や社会民主主義から見れば、たぶん私たちの立場と主張はアナーキズムに見えると思います。私たちはすでにマルクス主義を典型とする「理念にもとづく歴史主義的立場」を否定しているので、アナーキズムに限らずどういうレッテルを貼られても構わないのですが(あくまで人びとのたたかいが目的であり、理念や思想は後追いの一時的なまとめで、たたかいの手段でしかありません)、それでも従来の左翼からのありうべき幾つかの問いに対して現時点で私たちが考えられる範囲で答えておきたいと思います。
● 国家は打倒すべきか
最初に来るのは、私たちのいう民主革命の徹底化は「国家の打倒をめざさないのか?」という問いでしょう。
民主主義は資本主義生産にもとづく社会が土台にせざるをえない政治的仕組み(政治形式)です。ここで「形式」というのは、民主主義が本来持つ理念は「人びとの自己統治」ですが、現在存在している代議制民主主義はこの理念を実現する仕組みになっておらず、基本的に形だけのもの、つまり「形式」にとどまっています。
当然、社会矛盾が深まってくると、形式に依拠しながらも、その実質的な実現をめざそうとする人びとのたたかいが生まれます。
このたたかいは、実質的な民主主義をめざすものですから、基本的に現存社会の内部での変革にとどまっていますし、そのまま直接国家の打倒、資本主義の変革をめざすものではありません。したがって、この問いに対する答えは端的に「ノー」です。その主な理由をあげれば以下になります。
第一に、民主主義をめぐるひとびとのたたかいの始まりは常に具体的であり、人としての尊厳と自由を侵害する特定のルール、法、政策を阻止すること、あるいはその実質化をめざすものだからです。さしあたってそれ以外ではありえません。もちろんどの程度の実質化をめざすのかをめぐってはたたかいの参加者で意見が異なるでしょうし、またたたかいの中で意見も変化していくでしょう。ですが、このたたかいの基本的なあり方から離れることはできませんし、すべきではないと私たちは考えます。
第二に、国家権力を打倒しても、その後に来るべき社会のプランを私たちは現段階では持っていないし、またさらに進んであらかじめ持つべきではないと考えるからです。マルクス主義が「国家権力の奪取をテコに、生産手段の国有化をおこなうことで共産主義社会を実現できる」と社会工学的な青写真をもち、旧ソ連や東欧、中国、北部朝鮮、ベトナム、カンボジアで政治権力を握ったとたんに、人間の尊厳と自由をめぐって資本主義近代が達成したレベル(形式的民主主義)以下の事実上の奴隷制国家を生み出してしまったことを歴史として知っているからです。
● 新しい共同体への道
予想される二番目の問いは、「では、新しい共同体の展望をなぜ持てないのか?」になると思います。
もちろん、民主主義の徹底化から、つまり一つ一つ具体的な目標をもった民主主義のための人びとたたかいの中から、また権力がそれに応じて再編成されていく過程のどこかで、民主主義のあたらしい組み替え(アレンジメントの再編)が起こり、資本主義の後に来るべき新しい社会(共同体)の萌芽が生み出される可能性があります。資本主義生産の行き詰まりが誰の目にも明らかになりつつある現在、そうなることを私たちは望んでいますし、実際にも、それはかならず未来のどこかで生み出されるでしょう。しかし、その萌芽がどんなものか私たちは想像はできても、あらかじめ予知できないのです。
いくつか想像をとりあげてみます。
たとえば「市場経済」を廃止しようとする考えがあります。言うまでもなく、市場経済は資本主義社会の根幹にあるものであり、それがこの社会の矛盾を生み出すモーターでもあるわけですが、同時にそれが移動の自由や職業選択の自由という人権に担保されている「個人の自由」とも密接にかかわっていることも確かです。だとすれば、政治的な力を使って、つまり国家権力を使って、市場経済を廃止することがはたしてこの近代社会の政治的遺産を破壊しないのかという問題があります。「いや、必ず破壊することになるので、市場経済は維持すべきだ」と、たとえばアナルコキャピタリストたちは主張するわけです。
よく市場経済に対置して「生産者協同組会」が持ち出されますが、職業選択の自由を含め、そこでの人びとの自由がどの程度確保されることになるのかなお不透明ですし、また一国の資本主義経済が単独ではありえず、世界経済とリンクされている以上、一国内での市場の廃止だけではたして経済が成り立つのかという疑問も残ります。これについて私たちは『柄谷行人氏「世界共和国へ」について』の中で次のように述べています(一部補足しています)。
「—たしかに協同組合では経営と労働の分離が存在しないし、剰余労働が労働者の搾取としては(つまり剰余価値としては)生まれないであろうが、他の協同組合との交換手段が何であり、何を基準におこなうのか、また何をどれだけ生産すべきかは需要と供給のバランスをとる市場が存在しないとすれば、いったいどういう指標で決まるのか、海外との交換-決済手段は何かが解決されなければならない。柄谷はラッサールなどの上からの、つまり国家が支援する「協同組合」は国家の強化に繋がるだけだと否定し、あくまでプルードンの主張したような「自由な連合」としての協同組合だなければならないとする。しかし、国家でなくても、社会全体の調整は必要であり、だとすればたとえ部分的であれ、官僚制や市場的機能は不可避だろう」
これらの問題に対して、人口に対して財の希少性が現代でも問題になっているとすれば、「今後の科学技術の力で十分な財を生み出せる可能性があり、さしあたり一国内でも自給自足経済を維持できるのではないか」という問題提起もありえます。
さらにこれが一国で実現できれば、自給自足経済システムを世界に広げて行けばやがて国家も消滅するだろうという論理的推測も成り立つでしょう。この場合は、もはや剰余価値を実現するものとしての、つまり商品交換システムとしての市場機能は必要でなく、必要に応じて財を受け取るだけの機能が残ることになります。また財の分配をめぐる人びとの争いも、したがってまた「支配-非支配関係」もなくなっていくでしょう。しかし、このような時代がはたしていつ訪れるのか誰にも分からないし、現在はただユートピアにとどまらざるをえません。
さらに「財の生産を私企業、協同組合、国営企業が並立しておこない、したがって市場も自由市場と公営市場が併存する混合経済が望ましい」という主張もあるかも知れません。しかし、ちょうど現在の中国がそうであるように、過渡的なかたちとしてはありえても、世界経済の中で生き残ろうとする限り、いずれは自由市場に呑みこまれざるをえないでしょう。
どの想像、アイデアをとってみても、現時点で私たちは資本主義の後にくるべき新しい共同体をなお明確なものとして予知できないのです。にもかかわらず「予知できる」と考えたところに過去の革命運動の大きな錯誤があったと私たちは考えます。このことは人間の知のあり方と関連する極めて重要なポイントになります。
そもそも人間の知が、その対象が自然であれ社会であれ、大きな限界を持っていること、そして知は、人びとの自由な発意と討議、そして試行錯誤を条件とする「集合知」としてのみ発展するものだということ、そしてまた集合知は人びとの関係が変化していくことに応じて再編成されていくこと(絶対的な全体知などない)を認識の根底に置くことが社会運動にとって不可欠なのです。一言でいえば、私たちの知はただ「経験知」としてしか構成できないという自覚です。ちなみに、かってハイエクがマルクス主義に対して、社会も市場も知も自成的に生成してきたものであり、それを人工的に変更できるとする「社会工学思想」として批判し、それは必ず全体主義を導くと主張したことがありますが、私たちの認識もハイエクの考え方と重なるところがあります。ただし、ハイエクは新自由主義のルーツとも言われており、実際にもその旗振り役であったフリードマンらシカゴ学派によって利用されているのでその主張に全面的に賛同するわけではありません。
● ではどのようなたたかいになるのか?
「新しい共同体は知りえない、ただたたかいの中から生まれてくる」というのが私たちの考え方ですが、三番目の問いは「では、そこに至るまでのたたかいはどのようなものになるのか?」でしょう。
歴史的な類推を持ってくるとすれば、かってA.グラムシが構想していた「陣地戦」に近似したものになると考えます。陣地とは、それぞれが相対的には独立しているものの、部分的には重なっている層(レイヤー)として存在している現代社会の社会的、政治的、文化的制度であり、民主主義をめぐって人びとと国家権力が対峙している空間です。この空間で両者の綱引きが、つまり人びとの尊厳と自由を守るための権力とのたたかいが日々展開されているわけですが、人びとのたたかいは単独者としての抵抗からはじまり、やがて群れが形成され、群れとしての対峙から反撃へ進み、それまでの権力との境界線が書き換えられていくことになります。もちろん権力側の巻き返しが起り、後退を余儀なくされることもあります。したがって陣地戦とは彼我の境界線を書き換えることと言えますが、ドゥルーズ=ガタリの用語を使えば「領土化と再領土化」をめぐるたたかいです。
たたかいの中で、一時的に人びとがある陣地を占領することも起きてきます。さらにこれら占領された陣地が、それまで別のレイヤーと見なされてきた陣地と結びつくことも起ります。したがってさまざまなレイヤーにおける分散した陣地戦が、レイヤーの壁を破り、たたかいが一つのものとして認識されていくプロセスが大切なことになります。レイヤーとは領土であり、人びとが他者の存在を見ることができない不透明な壁です。この壁を破ることは、他者との出会いを意味していますし、この出会いを通じて自分を再発見、再確認していくこと(人間としての誇りと自由をより充実したものとして獲得していくこと)が可能になります。
したがって、たたかいを通じて「変身」していくことが陣地戦がもたらすものであり、ポイントだと私たちは考えます。そしてそれがたたかいの苦しさを凌駕する「喜ばしき変身」であるからこそ、たたかいは継続し、陣地が繋がっていくことが可能になるのです。
いつか陣地戦が正面戦になるかも知れませんし、結びついた陣地の力が強化された結果、正面戦にならずに社会変革がもたらされるかも知れません。ここでも予知はできませんが、たたかいの中から集合知として生まれる人びとの智慧と行動が必ず活路を開くだろうと思います。ただ、そうはならず、人びとが一時的に大敗北を喫し、野蛮(ファシズム)の嵐が吹く可能性もあります。けれどもたとえ野蛮が一時的に支配を確立しても、再領土化をめぐる人びとのたたかいが終わることはないのです。
補足ですが、「民主主義の徹底化」や「陣地戦」という言葉を聞くと、かってのイタリア共産党をモデルとした構造改革派を想起されるかも知れません。しかし、構造改革派はあくまでマルクス主義に立っていたのであり、彼らのいう民主主義闘争はその延長上に社会主義革命を展望するもので、手段として位置づけられていました。私たちはマルクス主義を否定していますし、民主主義をめぐるたたかいは手段ではなく目的と考える点で彼らと異なります(より正確に言えば、たたかいとその過程そのものが目的だととらえます)。また彼らが、レーニン主義的な党ではなく、ヘゲモニー党としてであっても党派であった点も(次に述べますが)、私たちと異なる点です。もっとも、かっての日本における構造改革派はその後、「緑の革命」に傾斜し、大きく変貌したようです。
● 党は必要か
ここで先にあげた、知はおよそ集合知でしかありえないという認識に関する考え方と関連する四番目の問いとして「たたかいに党は必要でないのか」に答える必要があると思います。私たちの答えは必要ないということになります。
なぜなら上にあげた認識は、これまでの左翼社会運動で前提とされてきた「党」なるものの限界を指し示しているからです。党は特定の理念(多くの場合は来るべき社会の青写真であり、絶対的な全体知と呼ぶべきもの)を掲げ、その理念を実現するための道筋を示し、人びとを導くものとされるわけですが、私たちの認識からいえば、どのような党であれ、いくら「党内民主主義」を掲げていようと、必ずどこかの段階で、知の独占を図ろうとする、つまり党の官僚たちが自分たちだけが「真理」なるものを体現しているという倒錯に陥らざるをえないものです。
そもそもありえない「絶対的な全体知」を出発点にしている以上、どこかでカルト的に人びとに真理を押し付ける結果になります。また「党=指導する者、人民=指導される者」という二元論的な把握自体が大きな錯誤、思い上がりであることも言うまでもありません。この二つの錯誤によって早晩党が独占する真理によって人びとを平準化しようとする致命的な誤りを生むことになります。致命的とはこの誤りが、人びとの尊厳と自由を侵し、しばしば死を招くものだからです。その典型が、スターリンやポルポトがおこなった粛正です。
私たちノードは「たたかいも、たたかいの成果も、人びとがみずから行い、享受すべきものもの」と考えます。私たちはその一人一人に過ぎません。私たちは党派を結成せず、たたかいの成果を簒奪しようとするすべての党派に抵抗し、距離を置く者です。(未完)
2014