まず常識的に考えてみる。
(1)
AとBの間で二つのモノが交換される。例えばクマの毛皮とパンとしよう。いわゆる物々交換。その場合、二つのモノが互いの使用目的(欲しいモノ)に合致するから交換される。一方は寒さを凌ぐためであり、他方は飢えを防ぐためという風に。
交換は緊急の場合などは別にして、AとBがどれだけ相手のモノを必要としているかと、二つのモノがほぼ等しいと見なされることで成立する。すなわち互いの必要性が等しいとすれば、物々交換とは基本的に等価交換になる。どちらかがこの交換があまりにも不等価だと思えば、交換は成立しないだろう。だが同様な交換が繰り返されると、おのずと何が量的にみて等価交換かの了解が形成されるようになる。たとえば毛皮一枚=パン30個という具合に。必要性が大きく変わる場合は、例外的にこの等式は変化することがあるとしても。
この等価交換の場合、モノの価値はその素材を含めてどれだけ希少か、またどれだけの労力がかけられているかが基準になるだろう(希少性と労働時間)。毛皮をつくるには動物の捕獲が偶然性に左右されることに加え、多くの時間と労力がかかる(たとえば1ヶ月に数枚)のに対して、パンを作るのはより少ない時間でより少ない労力で可能であり(たとえば1日で20個)従って多くの数量がつくられる。ここで価値は交換価値といえる。
食料や衣料など使用価値が高いモノは、多様なモノと交差的に交換されていくようになると、おのずとあるモノが交換価値の基準として使われるようになっていく。たとえばパンは、毛皮だけでなく、衣服や、食器や、食料として同種の果物や、油とかと交換されるようになると、たんに使用価値(食料)だけでなく、交換価値の一般的基準(物差し)に昇格するだろう。貨幣の発生。これは等価交換が繰り返される中で自然発生的に生まれたものである。
初期段階の共同体内部のモノの交換は経済合理性に導かれる等価交換ではなく、贈与や互恵の原理にもとづくので、人類学では、貨幣は共同体と共同体の交換から発生したとされている。
やがて貨幣はパンではなく、自ずと携帯可能で変質しにくい一定のモノに定まってくる。たとえば希少性のある貝殻とか、ビーズとか、鉄や銀や金などの鉱物、小麦や米などの穀物など。ここでは貨幣は、汎用性や希少性をもったモノにとどまっている。
貨幣が継続的に使用されるようになると、やがて交換は等価交換である本質を変えないまま、交換以前からあらかじめ参照され、貨幣獲得のためにモノが生産されるようになる。たとえばブドウ酒は、銀貨2枚と交換される交換価値を持つモノとして生産される。商品の発生である。商品はそれぞれ価格を持つ。
ただ物々交換でない商品交換は、販売できるかどうか確定しないという不安定性を抱え込んでいる。すなわち商品の生産は一定の需要を見込んだ見込み生産となり、人的サービスもどれだけの顧客が、どれだけの頻度で使ってくれるかは予測するしかない。
貨幣はそれを承認する共同体間で働く段階から、時間とともに共同体内部に浸透していくことになる。貨幣が浸透してくると、モノだけでなくさまざまな人的サービス(たとえば運送や散髪屋など)も商品化するようになる。こうして共同体内部と共同体間で商品交換が行われるようになると商品が流通する市場が拡大し、恒常的な市場も生まれる。
商品交換とは貨幣を参照項とする等価交換であり、やがてそれがいつでも多様な商品と交換可能な性質を持つ以上、たんなる交換手段にとどまることなく資産として蓄蔵の対象となる。
蓄蔵された貨幣は、同等量に利子をつけて貸し付ける利子生み資本として使われるようになる。利子を禁じたイスラム圏以外で発生した初期的な資本形態。さらに共同体間の空間的隔たり、したがって商品流通の時間的差異を利用して、「安く買って高く売り」、その差額を取得する商業資本として使われるようになる。
(2)
そうすると、社会が資本主義社会に移行する前に、既に以下の経済カテゴリーが存在していたことになる。
○貨幣
○商品
○価格
○商品交換・市場
○利子生み資本
○商業資本
たとえば封建社会を考えると、そこでは主権者として領主がいて、農民は一定の土地を与えられコメなどの穀物を生産するが、土地を占有してはいても所有しているわけでなく、生産されたコメなどの一定量を領主に年貢として引き渡す(物納)義務を課せられていた。つまり生産は人と人との直接的な支配従属関係に依存していて(農民は移動を禁じられ土地に縛り付けられた農奴であった)、コメは領主農民の双方にとって商品ではなかった。
だが、領域内ではすでに貨幣が機能していた。すなわち多くのモノと人的サービスは商品として一定の価格を持ち、貨幣が商品と交換される市場が存在していた。蓄蔵した貨幣を大名に貸付けて利子をとり、他の領域国家と通商する商業資本として利用する商人たちが存在し、時とともに大きな力を持つようになる。しかし封建社会は身分と職業が固定され世襲される身分制社会であり、かつ基本的に農業社会であり、商品も市場も貨幣も政治的な制約の下にあり、限界を持っていた(商品市場の部分性)。
やがてフランス革命を典型とする市民革命によって封建社会が倒され、資本主義社会が誕生する。身分制度は解体され、すべての人間は政治的社会的に市民として平等だとされ、複数の領邦国家は宗教的に中立な民族国家として統一された。国家の主権は王や貴族などではなく、市民の集合体にある宣言され(国民主権)、独裁を防止するために行政、立法、司法の三権が分立する国家システムが採用された。中立国家とは、国家は商品取引を中心に営まれる市民社会に介入しないということである。これらのあり方が最高法規としての憲法に記入され、近代国家が成立する(立憲主義)。
近代国家成立を引き起こすにいたった経済的変化はどのようなものだったか。それは土地から農民を駆逐し、労働する能力以外の資産を持たない無産の労働者を形成すること、土地を公有から私有化すること、私有財産に対する国家の制約を排除することであり、マルクス主義でいう「資本の原始蓄積」の過程であった。
資本の原始蓄積とは、歴史的出来事として、労働力と土地という本来は商品化になじまない二つの社会的経済的カテゴリーが暴力的に商品化され、それを貨幣で購入し、モノの生産に投入する生産資本が誕生したことを意味する。
生産資本は、商品である土地+原料+労働力+設備を購入し(土地を借りる場合は地代となる)、これらをモノの生産に必要なコスト(経費)として計上し、出来上がったモノを一定の価格をもつ商品として市場で販売することで得られる利益が常にコストを上回るように努力することになる。利益からコストを差し引いた残余額が一般的に利潤と呼ばれ、マルクス主義では剰余価値と名付けられる。こうして生産資本の目的はより多くの剰余価値を獲得することになる。
だが剰余価値はどこから生まれるのか。土地、原料、設備などの商品は多少取引上の有利不利、デコボコはあっても基本的に貨幣との等価交換で得られるものであり、そこから新たな価値は生まれない。コストのうちの何かが不等価交換によって購入されているはずである。つまり購入した価値よりも生産のプロセスでそれ以上の価値を付け加える何かであり、それが労働力に他ならない。
(3)
整理してみよう。
○一定の使用価値を持つモノの等価交換が反復されれば、モノの中から貨幣となるモノが特定され、自成的に発生する。貨幣とは使用価値を超え、「基準となる交換価値」が化体したものである。
○貨幣の使用は本来モノとモノの交換の延長上にあり、直接的に商品を前提とするものではないが、反復して使用される中でやがてその利便性からモノの「王」としてのポジションを獲得し、交換関係を仕切るようになり、モノが商品形態をとるようになる。(この説明は正しいか?)
○モノである商品は貨幣を前提にし、生産はつねに貨幣と需要を参照しながら実行され価格が設定されるが、これは貨幣に導かれたモノの所有者たちの無意識的な共同行為として行われる。
○モノの所有者たちの商品化に向けられた無意識的な共同行動なしに、商品は生まれず、交換市場も形成されない。
○とはいえ、商品は市場で販売してその価値を回復することが目的である以上、商品の市場投入は常に需要の読み違いで目的が達成できない本質的なリスクを負う。商品の命がけの冒険。
○貨幣の出自はモノでありながら、交換のプロセスを通してあたかも商品を超越した独自の力を持つようにみえ、物神化されるようになる。
○貨幣に媒介される商品交換は、人がモノとモノを交換する社会関係から生まれ、この社会関係は商品交換の都度日々反復されているのだが、貨幣の物神化に伴い物象化され、人には直接的に見えなくなる。
○社会関係の物象化とは、モノをめぐる人と人との関係(交換関係)が、貨幣と商品が独立してとり結ぶ関係(商品世界)から切り離され、商品世界がそれ独自のコードで動いているように見えてしまう事態をさす。
(4)
モノとモノとの交換が反復されていくと、モノの中から一つのモノが交換の物差しとして選ばれ、交換価値の基準として貨幣が誕生する。
この把握は間違いではないだろう。問題は商品の発生である。(3)では以下のように考えたが、疑問が残るためカッコに入れた。
貨幣の使用は本来モノとモノの交換の延長上にあり、直接的に商品を前提とするものではないが、反復して使用される中でやがてその利便性からモノの「王」としてのポジションを獲得し、交換関係を仕切るようになり、モノが商品形態をとるようになる。(この説明は正しいか?)
ここでは、貨幣が誕生すると、モノとサービスが貨幣獲得を目的として生産され、提供されるようになるという事実を述べているに過ぎない。なぜ貨幣が目的となるのかの説明が欠落している。
常識的に考えれば、❶貨幣はすべてのモノと互換性があるために、モノとモノの交換の労力と煩雑さを回避することができ、❷モノとしての出自を持ちながら耐久性があるため使用に時を選ばない便宜性を持ち、❸蓄積すれば、利子付きで他者に貸与できるからだと考えることができるだろう。これらの理由はすべて人が経験から学んだことである。
もしこれらの理由が大きく間違っていないとすれば、貨幣の誕生は必然的にモノの商品化を促すことになる。したがって、貨幣と商品は切り離せない関係になる。これを商品所有者である人の意識からみれば、貨幣獲得をめざす商品の提供は、反復的な経験に基礎があるため、ほとんど無意識的な行為になると言えるだろう。
ではモノの商品化をどうすれば避けることができるだろうか。
(5)
ここで榎原均氏の問題提起を引用しておく。実は勉強ノートは榎原氏の主張が妥当なのかどうかを自分なりに検討するためのものであった。以下○で榎原氏の主張を要約する。
○商品・貨幣関係の廃絶の展望は、それらがどのようにして成立しているかを解くことから導かれてくる。貨幣は、諸商品に意志を宿した商品所有者たちが交換過程に直面して、本能的に単一の商品金で自分たちの商品の価値を表現するという共同行為を行うことによって生成され、そして、貨幣が生成されることによって商品関係は社会的に妥当なものとなり得た。所有者が自らの所有物に価格をつける、という行為が貨幣関係を日々再生産しているのであり、このように所有者の行為によって日々再生産されているがゆえに、それを廃絶することも可能なのである。ところが、貨幣生成の共同行為は、商品所有者たちの意志行為ではあるが、商品という物象に意志を支配された行為であり、社会的本能にもとづく行為であって、自由な人格間の自由な意志行為ではない。当事者たちにとってこの共同行為は、無意識のうちになされているのであり、それゆえ彼らの意識にあっては、貨幣がすでに存在しているから自分たちの商品に価格をつけていると観念されていて、自分たちの共同行為が貨幣を生成させているという現実は意識されない。(商品という物象)
○物象による意志支配からどのように逃れるか、という問題は、今日では大衆がいだいている一般的な関心となっている。問題を商品・貨幣関係の廃絶としてたてること、これが思想界の混乱から抜け出るための出発点である。商品・貨幣関係の廃絶の実践的展望が不明なために、革命運動が自然成長的に得ている力を社会革命の力へと転じることができていない、ということによっている。
○物象による意志支配とは、根源的には貨幣生成のための本能的な共同行為に始まる。したがって、そこから逃れるためには、本能的な共同行為を廃絶すればよい。ところが、社会的なものであるとはいえ、本能的な行為を意識で統制しようとする試みは直接的には失敗せざるをえない。この共同行為は、法律的、あるいは行政的措置の手におえない領域にあり、このことはプロレタリアートの独裁の下においても変わりはない。実際、プロレタリアートの独裁が、法律的、あるいは行政的働きかけでもって、商品・貨幣関係を廃絶しようとする試みが破産したということは、歴史上の現実なのである。
○この歴史上の現実はまた、ブルジョア社会が成熟しない時点での試みであり、従って、革命運動は、自らの試みを実現する物質的及び精神的諸条件をもち合わせていなかったこととして理解することができる。本能的な共同行為を直接に意識的に統制することが背理であるとしても、ブルジョア社会が成熟し、階級が成熟して、プロレタリアートの自然成長的な力量が増大しているもとで、大衆運動が最大限網領のレベルの要求で自己を組織するようになってくると、この本能的共同行為を不必要とする物質的・精神的諸条件を形成することが実践的に可能となってくるのである。貨幣を生成する本能的な共同行為は、直接には統制できないが、しかし、この共同行為を不必要とする諸条件を形成さえすれば、迂回的に統制することができる。そして、これが、商品・貨幣関係の廃絶のための実践的展望の解明の手がかりなのである。
ここでは貨幣はすぐには廃絶できないが、商品化は回避することができるとされている。念頭に置かれているのは、生産と消費の協同組合と地域通貨などによる新たな決済手段の形成だろう。だが、この論理立ては妥当だろうか。その検証のためには、榎原氏が前段の作業としておこなっていた価値形態論を追うことが必要になる。
(6)
まだ不明確なところが残る。
貨幣の誕生が、モノの商品化を促進し、拡大する。あたかも貨幣が引力を持つようにモノが引き寄せられ、商品に変貌していく。
貨幣を媒介にした商品交換が反復継続していくと、貨幣は商品としての出自を持ちながら超越的なポジションを獲得する。貨幣の物神化がはじまる。
榎原氏は、モノの所有者が貨幣と需要を参照しつつそれに価格をつけて商品化し、市場に参入する行為を「無意識的な共同行為」ととらえている。
しかしはたしてそう表現する必然性がどこにあるのか疑問が残る。商品交換(等価交換)が反復継続されるのは、商品所有者がその対価として貨幣を受け取り、それによって様々な生活資料を購入するためという明確な目的がある。貨幣が盲目的に追求され物神化することはあっても、交換自体が「無意識的に実行される」という必要性は明確ではない。
榎原氏は「商品交換によって日々貨幣が生成される」とも書いている。これはどういうことか。商品は貨幣と交換されるのであるから、交換のつど、貨幣は交換の対価および決済手段としてのポジションが再確認されていくという意味だろうか。
逆にいえば、商品と交換されない限り、貨幣は機能を失うということだろうか。いまざっくり言えば、貨幣と商品は一体の関係にあり、一方が機能を停止すれば他方も停止せざるをえないということが主張されているのか。
また榎原氏は、モノとモノとの交換が貨幣と商品の交換の形をとることで、社会関係が物象化されるとも書いている。これは本来、モノが使用価値を中心に人と人との間で交換される社会関係では社会関係が物象化されることはなく、人びとにとって透明であるという観点が前提になっている。より広くいえば、商品社会である資本主義社会は必然的に物象化を引き起こし、労働者のみならず人が社会関係から疎外されるということなる。疎外論の一形態。マルクス「経哲草稿」、あるいはヘーゲル?
ルソーがそうであるように、一般的に疎外論はあるべき社会を想定し、現実社会がそれからいかに隔り、退廃しているかを指摘する立場である。そこでは社会全体が問題になり、あるべき社会に向けてその役割はあるとしても、労働者だけが特別な存在として扱われることはない。
だが社会構成体は時間の中で歴史的、一回的な出来事の結果生成、展開してきたという立場に立てば、疎外論は無意味な理論立てになるだろう。この立場と、資本主義の傾向を分析し、帰納的に一定の展望を持つこととは矛盾しない。労働者がこの社会の下で悲惨な立場に追いやられていることを事実として認識し、その原因を探り、その資本との闘いをもっとも重要なものとみなすことができる。したがって自然破壊が劇的な結果をもたらす人新世ではどんな課題があるかを自由に探求することも可能になる。
(7)
ただ榎原氏と同様に次のことは言えるだろう。
貨幣と商品が支配的な社会を突き崩していくためには、モノとサービスの交換が貨幣を媒介とする商品交換にならないようにする必要があり、そのためには、たとえ歴史的に幾つかのステップを踏まなければならないとしても(つまり貨幣と商品は一挙に消滅させることはできない)、モノとモノとの交換を使用価値を中心にする等価交換へ移行させていくことが決定的になる。その具体的形態は、現在でも部分的に組織されている生産協働組合、消費協同組合の連合、および地域通過などである。
榎原氏は以上の観点から、貨幣と商品を一挙に消滅させることはできないゆえに、資本主義の段階から、協同組合運動を通じて、人びとの意識を変革していく必要があるとし、部分的であっても社会革命が先行するべきだと結論づけている。人びとの意識が変革されない限り、いくら政治革命によって権力を掌握しても、ふたたび貨幣と商品が復活すると考えるわけである。無意識的な共同行為として貨幣と商品が生成される以上、政治権力によって強制的に廃止はすることは背理であると。いうまでもなくこれは、これまでの、また現在も続いているマルクス主義陣営の政治革命先行論、つまりプロレレタリア独裁論に対するアンチテーゼである。
この結論を導くために、貨幣と商品は商品所有者の無意識的な共同行為によると仮定したのだろう。しかし、上で述べたように、このことを前提にしなくても、「貨幣と商品を一挙に消滅させることはできない」ことは次のことからも導ける。
①資本主義企業から協同組合への転換には多くの時間がかかる
②(①と同じだが)産業・サービス分野によっては商品市場が長く残存する
③したがって、とりわけ決済手段としての貨幣は長く残存する
④一国において協同組合的国家が生まれても世界の商品市場は残存する
あるいはより一般的に、資本主義社会とは貨幣と商品と市場が支配し、その自然成長的な展開が動力となるコントロール困難な社会であるのに対し、協同組合社会は人びとが協働しながら運営し、社会をコントロールしていく意識的、自覚的な社会であり、だからこそ人びとの意識変革が決定的な要素となる。
しかしこのような認識に立つとしても、常に社会革命が先行すべきだと考えるのは、およそこれまでの社会革命のあり方を振り返れば現実的ではないと思われる。つまり、多くの革命は、政治革命と社会革命が折り重なって生起するものであり、なによりも革命を予測したり、いわんや計画することはできない。社会革命先行論は、場合によっては政治革命時期尚早論に陥り、変革のチャンスを逃すリスクを伴う。
加えて社会革命先行論は、人びとの意識が政治革命と社会革命の全プロセスを通じて大きく変革することを軽視する傾向に陥りやすい。
だとすれば問題は、たとえ政治革命が先行しても、貨幣と商品を廃絶する協同組合社会の建設(社会革命)には多くの時間と労苦がかかることを人びとが自覚しているかどうかだろう。
政治革命と社会革命が折り重なるのは、パリコミューン、ロシア革命、ドイツ革命などに典型なように、政治権力の奪取と並行して、コミューン、ソビエト、レーテなど協同組合的社会の土台になる組織が生まれていることが示している。悲劇的だったのは、これらの組織が政治組織としてのみとらえられ、社会革命の原器としての協同組合組織として扱われなかったことだろう。
(8)
社会革命については(7)でごく大雑把に結論めいたことを書いたので、次は資本論の価値形態について考えてみる予定だが、その前に気になっていることを一つ記録しておきたい。
競争の中で資本が利潤を確保していくためには、資本のうちの変動部分、とりわけ賃金部分を縮小し、設備など減価償却予定の固定資本の割合を増やしていく必要がある。つまり労働者をできるだけ排除して、これまでと同様の、あるいはそれ以上の生産性を確保しなければならない。しかし剰余価値を生み出す労働者が減少していけば利潤率は低下していかざるをえない。利潤率の傾向的低下と呼ばれる現象。
しかし現在資本主義が直面している問題はさらにその先にある。いまやサービス部門から製造部門にいたるまでAIとロボットが管理する「無人工場」や「無人店舗」が拡大しつつある。労働者が不用になれば企業はとりあえず先行利潤は確保できるだろう。しかし競合する同業他社も早晩無人化に追随する。そうすると、無人化が進めば、社会全体ではこれまでと同水準の生産性を維持しながら、膨大な失業者を生み出すことになる。失業対策は、企業にロボットや機械単位に税を課し、それを原資にベーシックインカムで対応すればよいとの議論がある。
だが真の問題はそこではないだろう。というのは、無人化とは、社会が、人びとがもはや労働しなくとも生活できるレベルの生産性を確保できるようになったことを意味しているからだ。つまり私企業とその私有財産は財とサービスを生み出す装置としての必然性がなくなるということである。私有財産は歴史的使命を終え、必然的に共有財産(コモン)に転化する。これは「各人は必要な時に、必要なだけの財とサービスを享受できる」、マルクス、あるいはプルードンのいう共産主義社会と呼んでいいだろう。
実際、無人化だけでなく、1%のウルトラリッチな人々が全世界の所得の30%、あるいは40%を占めるようになっている現在の事態は確実にこのような時代が到来することを予告していると考えるべきだろう。
この大変化は、しかしこれまでの革命のかたち(この前のポストで言及した「政治革命と社会革命のおり重なり)とは異なる様相を呈するかも知れない。
(9)
今回は価値形態論について。
[資本論初版]
第一形態 (簡単な価値形態)
20エレルのリンネル=一枚の上着
第二形態 (展開された価値形態)
20エレルのリンネル=一枚の上着
——–=u量のコーヒー
——–=V量の茶
——–=———–
第三形態 (一般的価値形態)
一枚の上着=20エレルのリンネル
u量のコーヒー=———–
V量の茶=————
———–=———–
第四形態 (最後の形態)
20エレルのリンネル=一枚の上着
————-=u量のコーヒー
————-=V量の茶
————-=————-
一枚の上着=20エレルのリンネル
————–=u量のコーヒー
————–=v量の茶
————–=—————
u量のコーヒー=20エレルのリンネル
—————=一枚の上着
————–=v量の茶
————–=—————-
初版では、第四形態にいたっても貨幣は登場していない。ではどこで貨幣は発生するのか。マルクスは交換過程においてであると理解していた。
[現行版資本論]
第三形態(一般的価値形態)
一枚の上着=20エレルのリンネル
10ポンドの茶=—————–
4ポンドのコーヒー=—————
第四形態(貨幣形態)
一着の上着=2オンスの金
10ポンドの茶=—————-
4ポンドのコーヒー=————-
現行版では、第三形態のあと第四形態で貨幣が登場する。
その理由を榎原氏は以下のように捉えている。
○ 初版の価値形態論では商品が主体とされ、商品が社会的に妥当な形態をどのようにして獲得するかという観点からの考察でした。ところが商品だけではこの概念は示せたものの(第三形態)、その形態自体は作り出せないという結論を、マスクスは、初版第四形態で示したのでした。そして商品所有者が登場する商品の交換過程において、商品所有者が商品に自らの意志を宿すことで商品の概念を実現し、そのことで貨幣が生成されるという独特の貨幣生成論の解明に成功したのです。
○ こうして商品からの貨幣生成は、商品所有者たちの無意識のうちでの本能的共同行為によることが明らかにされました。ここで本能という言葉の意味はもともと人間にそなわっている本能という意味ではなくて、商品に指示された社会的行為をあたかも本来の人間の本能的行為であるかのごとく錯覚して行動することを指しています。
ここで疑問なのは、貨幣は「商品所有者たちの無意識での本能的共同行為による」、すなわち貨幣は商品の交換過程ではじめて生成されるとしているところである。私たちは、常識的に、貨幣が媒介となるからこそモノが商品化すると考えるが、榎原氏は貨幣の前にすでに商品が存在していると主張していることになる。
しかしそもそも貨幣の前に商品が存在することはありえるだろうか。というのは、商品はそもそも貨幣との交換を前提にして市場に持ち込まれるものだと考えざるをえないからである。商品は市場で販売できるかどうか分からないリスクを背負っている。このリスクは、当該商品の在庫すべてではなくとも少なくとも一部は販売でき、貨幣と交換できる見込みがなくては誰も背負いたいとは思わないだろう。
つまり商品より先に貨幣があるか、少なくとも論理的には同時に存在していなければ商品交換はありえないと私たちは考える。
上にあげたマルクスの価値形態でいえば、モノとモノとの等価交換のプロセスで自然発生的に一般的価値形態(第三形態)が生まれ、やがて例でいえば20エレルのリンネルがその現実的姿として貨幣(現行版資本論の第四形態)に化身する。最終的には合理的な交換の必要性から、貨幣としての20エレルのリンネルは、1エレルのリンネルとして計算されることになるだろう。そしてさらにリンネルは、耐久性、蓄蔵性に優れた銀や金などの希少性鉱物に変化する。
もし貨幣が先行して存在していたとすると、榎原氏の主張は変化するのか。言い換えれば「商品交換によって貨幣が発生し、再生産される」(だから商品交換を回避できれば貨幣は消滅する)という榎原氏の命題は、私たちが「貨幣が商品に先行したか、同時に存在していなければ商品交換はありえない(貨幣と商品は一体である)」と考えることと矛盾するのか。
榎原氏がいう「商品所有者の無意識の共同行為」とは、むしろ貨幣を前提として、貨幣を獲得しようとする行為、さらにはモノの生産を商品の生産としておこなうことを指すべきではないのかと私たちは考える。
ここで思考実験をしてみよう。
もし貨幣を強制的に廃止すればどうなるだろうか。貨幣と商品は一体であるとすれば、商品交換は消滅し(不可能になり)、モノとモノの等価交換に復帰する。そのときの等価交換の基準は使用価値中心になるだろう。では商品を強制的に廃止するとはどんな事態か。これは貨幣の取得をめざさないモノとモノの交換となるから、やはり使用価値中心の等価交換に復帰することになる。つまり貨幣、商品交換のどちらかを廃止すれば、もはや両者は存在できず、使用価値中心の等価交換に復帰するということになる。
ここで等価交換とは何かという問題に戻ることになる。
問題は榎原氏も指摘しているし、私たちも既に(1)で触れたが、単純な価値形態とされる第一形態である。二つのモノは交換に際してどうして等価とされるのか。ここでは貨幣は存在しないので、貨幣以外の価値尺度が存在していることになるが、ノートの(1)では、交換価値が存在しないと等価交換は成立しないが、それはいわば(交換価値として独立したものではなく)使用価値に埋め込まれたものであり、そうである限り、大雑把な(つまり希少性が要素であり、労働時間も厳密に測定されない以上、変動が避けられない)交換価値であると指摘している。
AとBの間で二つのモノが交換される。例えばクマの毛皮とパンとしよう。いわゆる物々交換。その場合、二つのモノが互いの使用目的(欲しいモノ)に合致するから交換される。一方は寒さを凌ぐためであり、他方は飢えを防ぐためという風に。
交換は緊急の場合などは別にして、AとBがどれだけ相手のモノを必要としているかと、二つのモノがほぼ等しいと見なされることで成立する。すなわち互いの必要性が等しいとすれば、物々交換とは基本的に等価交換になる。どちらかがこの交換があまりにも不等価だと思えば、交換は成立しないだろう。だが同様な交換が繰り返されると、おのずと何が量的にみて等価交換かの了解が形成されるようになる。たとえば毛皮一枚=パン30個という具合に。必要性が大きく変わる場合は、例外的にこの等式は変化することがあるとしても。
この等価交換の場合、モノの価値はその素材を含めてどれだけ希少か、またどれだけの労力がかけられているかが基準になる(希少性と労働時間)。毛皮をつくるには動物の捕獲が偶然性に左右されることに加え、多くの時間と労力がかかる(たとえば1ヶ月に数枚)のに対して、パンを作るのはより少ない時間でより少ない労力で可能であり(たとえば1日で20個)従って多くの数量がつくられる。ここで価値は交換価値といえる。
食料や衣料など使用価値が高いモノは、多様なモノと交差的に交換されていくようになると、おのずとあるモノが交換価値の基準として使われるようになっていく。たとえばパンは、毛皮だけでなく、衣服や、食器や、食料として同種の果物や、油とかと交換されるようになると、たんに使用価値(食料)だけでなく、交換価値の一般的基準(物差し)に昇格するだろう。貨幣の発生。これは等価交換が繰り返される中で自然発生的に生まれたものである。(続く)
2021