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 上記の表題を持つ以下のテキストは、ウクライナのアナキスト系活動家であるPraleski氏がチーム(collective)として2月26日にポストしたもので、彼らの了解をえて翻訳したものである。Praleski 氏のウエブには本テキストの他にもう一本のテキストしか掲載されておらず(おそらく緊急に公開する必要があったためだろう)、氏の経歴もチームの現在の活動も詳しく紹介されていない。しかしこのテキストは、2月24日からはじまったウクライナ軍事侵略にいたるここ10年ほどの間ロシアがメディアで流してきたさまざまなプロパガンダの分析としては私たちにとっても有益であると考え英語版を翻訳することにした。有益というのは、ここ日本でもこのテキストで取り上げられ、批判されているプロパガンダと同類のものによって影響を受けている人たちが一定数存在しているからであるし、言うまでもなく、現在起こっているロシアによるウクライナ侵略が私たちにとっても重大な意味を持っているからである。以下本文。

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およそプロパガンダは、私たちが弱く、互いの結びつきが欠けている時に力を持つものだ。私たちはまださまざまな情報をどう分析していいか分からないでいる。利益目的のソーシャルメディアが私たちの主なコミュニケーション回路になりつつあるが、なお水平的な情報共有に適応してるわけではない。というのは、ソーシャルメディアは私たちを互いに疎遠にするような断片的な泡のようなものを創り出しているからだ。他方で古いメディアは中央集権的で偏見にまみれていて、私たちの声を取り上げることはない。かといって私たちは新しいメディアプラットフォームをコントロールできているわけでもない。しかしこの現実を理解するなら、前に進む道を見つけることができるかも知れない。

私たちは、あれこれのイデオロギー信奉者や権力の太鼓持ちたちに信を置くべきではない。彼らは人びとを、戦争がはじまる前にとんでも情報を流すようなメディアゾンビに変えてしまうほどスマートではない。実際のところ、ゾンビは人びと自身がそうなるのだ。プロパガンダについていえば、ロシア国家のアクターたちは新しいアイデアを作り出す能力を持っていない。だが彼らにとって幸いなことに、古いアイデアであっても彼らの目的を達成するのに十分なのだ。

このテキストは、その対外関係、とりわけウクライナをめぐっておよそこの10年あまりの間、もっとも使われてきたロシアのプロバガンダを問題にするものである。

「何が起こっているか分からないし、どちらかに肩入れして巻き込まれるつもりはない」

少なくとも2014年いらい、ロシアによるプロパガンダは必ずしも直接的にロシアを支持させることを狙ってはいなかった。そのための作業はそう簡単ではないし、世界で通用する語り口を作り上げるのは複雑だからだ。

それよりも政治的争点に無自覚か、決断しかねている者を中立化するほうがはるかに簡単である。これが情報操作の領域でファイクニースが溢れた理由であり、そこではより度外れていて感情的であればあるほど、まともな感覚を撹乱することができるのでよしとされた。本当の事実と完全なフィクションの境界が意図的にあいまいにされれば、物事を正確に捉えることが困難になる。その意味で、もっとも成功したのは、アクセスできるすべての領域でスパムを吐き出す能力を持つボットを使うアクターたちであった。

「私が何をしようと影響なんかない」

私たちも誰もがこの無力感を知っている。というのは私たちを取り巻く現実を反映しているからだ。そこでは自分たちの運命に影響を与える意思決定のプロセスから私たちは疎外されている。もしこの無力感が真実を反映したものだと受け止めてしまえば、およそ何かのために行動しなくなるだろう。この無力感に対処するため、何ほどかの確信を得ようと多くの人たちが陰謀論に向かうことになる。このプロセスは何も行動しないよりもダメージが大きい。なぜなら陰謀論は右翼の価値観を押し出し、それによって人びとが持つ可能性の窓を狭めてしまうからだ。無力感に対処する唯一の方法は自分の運命を自分の手で握ること、可能性の境界をテストしてみること、失敗し、その責任を取ること、そして前に進むことである。それは間違いなく、無力感に苛まれることよりはるかに楽しくより希望を与えてくれるものだ。

「ロシアは世界の一極支配に抵抗し、反対する極の一つだ」

大国中心に世界を考えるのは、大雑把にいえばユーロ中心主義から生まれた。歴史的にいえば、冷戦と二極システムは単純なもので、西欧による語り口ではそれは東からの脅威に対抗することと結びついていた。そのため、この概念は長く保持されてきた。しかし、現代ロシアは世界経済で重要なプレーヤーではない。つまりロシアを破壊するために爆弾は必要ないのだ。経済制裁だけで十分だろう。またロシアはすでに文化的な基準でもなくなっている。しかし、ノスタルジックに過去に囚われている者たちは、ロシアは世界プレーヤーの一員であると想像しているのだ。それが否定的意味か、あるいは肯定的な意味かは、誰が話しているかで異なってはいる。左翼はレーニン、宇宙船とガガーリン、そしてプロレタリアートの世界的ヘゲモニーを思い浮かべ、保守主義者は、レーニン=スターリン、核兵器ロケット、共産主義を見ていることになる。

ロシア自身は未来への展望を持っていない。未来に対する積極的なビジョンよりも想像された輝かしい過去に寄りかかっている。その過去は、異なった時代からある程度成功をおさめたものを刈り取ってきたものを寄せ集めて構成されている。中にはロシアが置かれているこのような状況だからこそ惹かれる保守主義者もいる。ロシアを伝統に固執する最後の砦のようにみなしているわけだが、それは彼らの先祖が100年以上も前にオリエンタリズムのレンズを通して東洋を見ていたのと同じものだ。他方では、保守主義に真剣に反対しながらも、反植民地主義や反レイシズム運動の立場からロシアを見て惹かれる者たちもいる。

これらの社会運動の理論的根拠となっているのはアカデミズムにおけるポスト植民地理論の確立や周縁地域における民族解放運動の急成長である。どちらもその立場の批判的立脚点をマルクス主義から得ている。マルクス主義の伝統の中で、反植民地主義は1920年代のソビエト理論家の仕事と直接的に結びついているが、革命直後のソビエト連邦は国際的な支援を必要としていた。当時連邦は世界革命のアイデアを発展させていて、反レイシズム、反植民地主義の運動を世界的な規模で直接的に支援していた。もしこの時代のソビエト文献だけを読んでいたら、とりわけ当時の西欧のアカデミズムの文献と比較すれば、現代ロシアがレーニンがツアー支配下のロシアを形容した「諸国家の牢獄」とほぼ変わらないことを信じるのは難しいだろう。

大多数の人たちにとってソビエトとロシアの植民地の歴史は盲点になっている。この盲点のせいで、ソビエト連邦とロシア帝国の周縁地域における反植民地運動が西欧の支援を受けた反動的なナショナリストによるものだけで構成されていると信じてしまいがちである。ロシアは自身をどう定義するか、またどう説明するかができないでいるが、西欧において流通している語り口を利用することはできる。効果的な親ロシアの語り口は意図的に作り出されるものではなく、トライアンドエラーの中から生み出される。皮肉なことだが、ロシアに対して西欧が作り出し使ってきたフレームワークを、今ではロシアがその植民地権力を再建し、安定させるために使っているのである。西欧の植民地主義に反対する人たちがロシアの植民地主義を支援する結果になりうる。なぜなら彼らは反植民地の闘いで敗北した者たちの歴史に無自覚だからだ。

 「それは西欧のロシア恐怖症だ」

冒頭に「ロシア恐怖症」という用語は、ロシア帝国内のユダヤ人に対する抑圧を正当化するためにロシアの反ユダヤ主義者たちが最初に使用したということを言っておく必要がある。他方、歴史的な話に深入りすること抜きにいえば、かってのオーストリア=ハンガリーやドイツなどのように、域内に有意な程度に植民地化されたスラブ民族を抱え込んだ帝国は「反スラブ主義」と呼べる複合的なイデオロギーを生み出しことを認めなければならない。反スラブ主義はドイツの国家社会主義(ナチス)において最高潮に達した。

ナチスにとってロシア人はスラブ的なものすべてのエッセンスを体現するものであった。「第三帝国」の崩壊後、この反ロシア主義は部分的に西欧の保守主義のより幅広い反共産主義に取り込まれることになった。彼らはロシア人を共産主義者の同意語として使ったし、ソビエト帝国を構成する多様な民族すべてを「ロシア人」という単一のイメージに包摂してしまった。この「ロシアから来た共産主義者」という非人間的な形姿は、1950-80年代にかけて反共産主義者たちが持ったイメージとして現れたし、19世紀のオリエンタリズムによる表象と容易に結びつくものであった。事情は左翼にとっても同様で、ロシア人のイメージは彼らの理想化された共産主義と固く結びついていて、その結果文字通り反射的にロシアの共産主義者を擁護することに慣れてしまい、ソビエト帝国もデフォルトで支持するようになっていた。ロシアのプロパガンダは何も新しいものを作り出したわけではない。西欧の古い語り口を彼らの目的に沿って使っているに過ぎない。こういう背景の下で、彼らはロシアのヘゲモニーに反対する闘いが何であれそれらを「ロシア恐怖症」と呼ぶようになった。

「ロシアは反ファシズムを掲げる国家だ。なぜプーチンが繰り返し彼の反ファシストの使命を語るのか?」

「ファシズムに勝った国」で、ファシズムについて真剣な理論が生まれた試しがない。普通のソビエト市民にとってファシズムは、明確な内容をもったものではなく、ただ悪の典型だった。しかしこの言葉は第二次世界大戦と直接結びついていて、ロシアでこの戦争は「大祖国戦争」と呼ばれている。しかしこの言葉は第二次世界大戦だけを意味しているわけではない。最初の祖国戦争は19世紀におけるナポレオンとの戦争だった。大祖国戦争は1941年のドイツのソビエト侵攻からはじまり、公式には1945年5月9日のドイツの降伏で終結したことになっている。この戦争のロシアの理解が西欧と違っているのは、13世紀のチュートン族による侵略、17世紀におけるポーランドによる侵略、さらにナポレオン、ヒトラーによる侵略をすべて「西欧からの侵略」として地続でとらえている点である。なおソビエト連邦は1945年5月を超えて日本と闘い第二次世界大戦に参戦したが、これは大祖国戦争には含まれていない。

この観念は年とともに発展し、戦争期間中に固定することはなかった。戦争終結後の時間が経つにつれ、国家神話としての重要性を増すようになる。この神話の主な象徴として第二次世界大戦が定着するのは1970年代である。90年代、とりわけプーチン時代になると、5月9日はロシアにとって主要な愛国的行事となった。ロシアには国民として一体感が生まれる休日が二つあり、新年と5月9日の「勝利の日」である。

そもそも「勝利(Victory)」という言葉は、善と悪の終末論的な闘いと結びついている。この闘いにおいて選ばれたロシア国家はみずからを犠牲にし、世界を救い、悪を滅ぼし、犠牲になるプロセスでみずからの使命を確認する。犠牲が大きければ大きいほど、勝利における役割も大きくなる。これが第二次世界大戦で最大の犠牲者と損害を出したのはソビエト連邦であるというフレーズをいつも持ち出していたレトリッックである。ソビエト連邦崩壊後のロシアもこの犠牲のレトリックを「ナチドイツを敗北に導いたのはわれわれである」という語りを合理化するために使い続けている。だが、犠牲者と損害の大部分が現在独立国家であるベラルーシとウクライナに帰属している事実を考えると馬鹿げた主張である。

支配的なイデオロギーに従えば、大祖国戦争を勝利に導いた主な条件はロシア国民の統合である。「戦争と平和」におけるトルストイにとって、この統合は祖国と倫理の観念として具体化されている。スターリンの時代では、この統合は指導者とモスクワへの忠誠によって認められることになった。

これが意味するのは、指導者個人あるいは少なくともソビエトの集団指導体制に忠誠でないすべての者はファシストだということである。ソビエト時代、ソビエト連邦は大きな兄弟の導きの下に団結した諸国家の連合体(このテキストで国家という言葉は主にロシアの通念での民族国家という意味で使う)としてファシズムに勝利したという理解が存在していた。しかし過去10年ほどの間に、この理解はファシズムを倒したのはロシア民族だけであり、他の民族は重要な役割を果たさなかったか、分裂をもたらしたという理解にシフトした。このシフトは、ロシアの文化大臣ウラジミール・メディンスキー(Vladamir Medinsky)の著作と結びついている。彼によれば、「団結したロシア人はその民族的性質からして反ファシズムである」と。これが実践的に何を意味するかといえば、ロシア民族の指導者は何がファシズムであるかを定義できるということである。

この立場が、今日プーチンが「ウクライナではファシストが権力を握っている」という場合に何の証明も必要としない理由である(ちなみにプーチンはしばしばナショナリズムをファシズムとナチズムと同義で使っている)。彼にとってウクライナ人であることは、ロシア人に歯向かう「ファシストの裏切り者」ということになる。従って、プーチンにとって「ウクライナの非ナチ化」とは、ウクライナがロシアに服従することを意味する。「非ナチ化」は、特定の政治家や理念が対象ではなく、広く理解されている意味で独立を対象にしているのである。この論理は、「正当なロシア領土」とみなされる地域の独立はそれがいかなる形態を取ろうとファシズムであり、遅かれ早かれ決着がつけられるべきだということを意味する。このような「反ファシズム」は、価値や内容から切り離されたものであり、ロシア政府中央のいかなる行為も正当化するために使われることになる。

「ウクライナを解放し、ファシズムを打倒すれば、ウクライナ人たちは喜んでロシア軍を迎え入れるに違いない」

ロシアにおける「民族」は、ロシア国境を他の民族の「他者化」によって区別するために使われるだけでなく(これは多くのナショナリズムで共通しているが)、国内の「腐敗したロシア人」に対しても使われる。この意味での「他者」とは、一般的にコーカサス、中央アジアの人びとをはじめ、それがどこであれロシア国境内の白人とはみなされない人びとをさしている。しかし実際には、「腐敗したロシア人」というレッテルは、ウクライナ人やベラルーシ人など他のスラブ系民族にも貼られている。典型的な例が、ロシアの国家建設の時期に主に文化的な文脈で言及されるウクライナのマゼパ将軍(Generall Mazepa)の話である。

1930年代の大粛清の時代、強制的な民族追放が大々的に展開された。この強制追放は第二次大戦の期間中も続行されたが、「彼らは民族まるごとナチスの協力者だから」という理由で正当化された。ソビエトとロシアの理論家たちはナチスによって形成された「協力ユニット」に言及することを好むが、これはソビエト連邦内の多様な民族によって構成されていた。こうして「裏切り者の民族」という形象を作り上げることで、実は大部分の協力者がロシア人であったという事実を覆い隠したが、その目的はソビエトとロシアの植民地主義的な政治と民族抑圧を合理化するためであった。

ロシアはウクライナの領土は歴史的にはロシア人のものだったとみなしている。この立場からは、ウクライナ人はちょうどトールキンの『指輪物語』におけるオルクとエルブスと同じように、もともとロシア民族の一員でありながら西欧に引き入れられ、西洋に汚染された者たちということになる。この立場はまた、ウクライナの健全な部分は西欧とファシストの権力が支配するウクライナのくびきに苦しめられていて、ロシア民族との再結合やロシア語を話すことを切望しており、この切望を妨害するのはファシストと西欧のエージェントだけだと主張する。多くのロシア兵や一般世論はこの語りを信じており、自分たちはウクライナで解放者として迎えられるだろうと思っている(このテキストを書いているこの瞬間にもロシア兵たちがこれが真実ではなかったとショックを受けている様子を伝えるニュースが流れてくる)。2014年のクリミアの併合とその時のプロバガンダの圧倒的成功によって、いま彼らはクレムリンと同じ程度にこの嘘を信じているのだ。

今この瞬間、大部分のウクライナ人は必死で彼ら自身を守ろうとして、地域の国防軍に志願して参加している。ロシアは占領者として見られているし、抽象的な意味(たとえば国家としての存在)だけでなく、ロシアの権力に抵抗し、屈服しない個人に対する具体的な脅威として受け止められているのだ。ロシアは長きにわたってそのプロパガンダの中でウクライナ人の存在そのものを否認してきたので、いまや本気でそうだと信じはじめている。これは、平均的なウクライナ人がロシアの行動について第二次世界大戦におけるナチスが実行したものと同質のものを予想するのに十分な理由があるということを意味する。幸いなことにロシアの行動はナチスが実行した規模には達しないだろうが、それでもプーチンのレトリックは日毎に過激なものになっている。すでにロシアの国営メディアのRIAノーボスチは、「ウクライナ問題」について「プーチンは歴史的責任を取り、ウクライナ問題の解決を将来世代に残さないと決定した」という声明をつけて言及している。この声明は少なくともウクライナ人全体をロシアに完全に屈服させることを含んでいる。ウクライナ大統領のゼレンスキーは最近のスピーチで、すべての出来事は独ソ戦が始まった1941年の夏を想起させると発言している。ロシアはRIAノーボスチ同様の声明とビデオをソーシャルネットワークに流し続けているが、これは今後起こることに対するウクライナ人の予想を裏付けるものだ。

「ロシア語の話し手はウクライナでは危険に晒される」

いわゆるウクライナにおける「ロシア語の話し手の抑圧」という問題は言語とはということと直接に結びついている。ロシアと何年にもわたる長い対立を経た今でも、ウクライナ人口の多数はモノリンガルではなくバイリンガルである。ロシア語とウクライナ語は非常に似ているので、ロシア語の話し手であっても数ヶ月でウクライナ語を覚えるのはさほど困難ではない。ウクライナに個人として住み、TVを見、メディアのコンテンツを消費しているなら、誰でもウクライナ語を覚えるのは避けられない。だからもしあなたがウクライナ語を理解できないとすれば、それは基本的に政治的な態度ということになる。

他方で、ウクライナにおける大部分の文化的商品(書籍、音楽、映画など)はロシア語で産出されているが、それはより大きなロシアマーケットに参入する経済的理由のためである。すなわち、ウクライナでロシア語が危機に晒されているという主張には何の理由もないことを意味している。確かに「ウクライナ語のために」幾つかの法令があり、公的メディア、国家組織、教育の領域では大部分ウクライナ語が使用されることになっている。しかし日常生活においてロシア語の使用を制限するような規制はこれまで存在したことはない。

言葉の問題はウクライナにおける民族差別を話題にする時にはいつも取り上げられてきたものである。だがロシア人とウクライナ人の民族的違いは、本人の自認抜きには区別できない。政治家たちはいつも言葉を地域的差異と結びつけて強調してきたが、すべての区別はここから来ていて人びとから来るものではない。極右のアゾフ大隊のネオナチでさえコミュニケーション手段としてロシア語を使っている。時とともに、この問題は自分の帰属に関わるものになってきている。多くの人たちは自分の政治的立場の表明としてウクライナ語を使い始めた。ところがウクライナ人、ロシア人を問わず多くの政治家たちは言葉の問題を社会問題や腐敗から人びとの目を逸らすために利用してきたのである。仔細に検討してみると、ロシア語の話し手の抑圧という問題は大部分が人心を操作しようとするものであり、地上の現実と結びついているものではないと思われる。

「ウクライナはファシスト国家だ」

これまで議論してきたことからいえば、プーチンにとってファシスト国家とは、ロシアが自分の領域だとみなしている地域でロシアに忠誠を誓わないすべての国家のことさしている。

実際には、ウクライナはロシア以上に多元的社会だ。議会における代表者も時間とともに選挙の論理に従い多元的になっている。ところがプーチンは最近のスピーチで、このことが「失敗したファシスト国家の兆候だ」と言及している。確かに極右と結びついている政党は存在しているが、成功しているとは言い難い状態にある。これらの右翼勢力を軽視すべきではないが、現状はとうていウクライナが彼らの支配下にあるとは言えない。ロシアとは対照的に、ウクライナの政治権力は多くのアクターたちの間に分散している。

ウクラニアの国家組織は今回の戦争でもめったに民族ナショナリスト的なレトリックを使っていないように見える。たとえばゼレンスキーはロシア人に対しロシア語で、(少なくともレトリッック上では)ロシア国家とロシアの人びとを区別しようと試みながら、プーチンがはじめた戦争を承認しないように訴えている。

「ロシアはウクライナの脅威に対して予防的に行動している」

ロシア国家によるこのレトリックは、ロシアが2008年にジョージア(グルジア)を侵略したときに使った「平和を強化するため」という理屈とほとんど同じである。ウクライナはロシアがクリミアを併合した2014年以降、防衛のために大きな投資をしてきたが、しかしウクライナがそれによって何を望んだとしてもとうていロシアを攻撃できる規模にはならない。いわゆる「ドンバス人民共和国」は最初からロシア軍に支援されていた。だから「ドンバス人民共和国」を攻撃することはロシアを攻撃することと同じになるが、ウクライナがそのような攻撃を仕掛けるだろうという推測は論理的には見えない。また西欧の軍事的支援は実体的なものとは言えないレベルである。殺傷能力のある武器の供与は侵攻に向けたロシアの準備に対抗するためここ数週間に増えたに過ぎず、しかも供与された武器も基本的に防衛的なものである。ドンバスへの攻撃と噂されているのは差し迫った現実ではなく単なるイメージに過ぎない。

ロシアのレトリックは事実確認や調査に基づくものではなく、作為的に作られたものであり、典型的な「被害者非難」のストーリーに沿ったものである。そこではウクライナ人が主体的に何を選ぶかが問題にされることはないし、主権を守ろうとするための行動や抵抗の意思はたった1オンスであってもロシアに対する脅威と解釈されることになる。抵抗ために手段を持てばこの脅威は増すことになる。ロシアと対等な者として話すこと自体がロシアに対する攻撃とみなされる。プーチンは、明らかにレイプを示唆する「好むと好まざるに関わらず、お前は耐えなければなfらない」という古い格言をウクライナに対する彼の決断を説明するときに引用したのである

「この対立は、ロシアとNATOの衝突なのだ」

すでに触れたが、NATOはウクライナで重要な存在になっていない。兵士はほとんどいないし、兵器も、軍事基地もない。ロシアのフルスケールの侵略が行われている現在でも、NATOは武器を送ってくれるだけで明らかにロシアとの直接的対決を避けている。ウクライナのいかなる領土にも権利を持っているというロシアの主張は、現在(あるいは将来において)ロシアが自らの正当な領土とみなすすべての国々を危険に晒すものだ。この危険に対する感覚が、NATO自身の活動よりもその地に住む人びとをNATOの腕の中に追いやっているのだ。ジョージアやフィンランドを見れば、ウクライナで露骨に示されたロシアの脅威がNATO参加をめぐる国内の議論にどれほど衝撃を与えたかが分かるだろう。2014年の出来事は、それまでロシアと厳しく対峙してきたNATOへのクリスマスプレゼントになったが、今回の事態はその厳しさに終わりがないということにNATOは直面することになった。

この議論は一般に、いかなる政治も地政学の一部分(部分集合)であるという概念に結び付けられている。だが地政学の前提には個人の役割や社会、あるいは世界で活躍するには小さすぎる国々が考慮されていない。またこのタイプの思考は陰謀論のそれであって、すべての行為はあれこれの超大国によって燃料投下されたものだと理解されることになる。またこれは、善であれ悪であれ、世界的な力をもつ「われわれ」の行為なくして何事も起こらないという観察者ビッグブラザーの目=レンズを通した表現となる。これらは地に足がついた分析の代わりによく使われる安直で見慣れた説明モデルである。その地に生きる人びとの見方が使われることがあるかも知れないにせよ、それも植民地本国の専門機関のフィルターを通してである。

この手の分析は自己実現の予言となる。住民や、彼らの活動や展望を無視することはメディアから彼らを消し去り、支援から切り離すことであり、今現在起こっている危機的な状況下では、文字通りその絶滅を意味しうる。

「二つの帝国主義は同じものだ」

反軍的な立場を取る人たちのデフォルトは、二つの帝国権力が互いに争っている場合、どちらの側にもつかないというものだ。これは便利で都合のいい立場だが、いま起こっている事態では通用しない。ロシアがその圧倒的な軍事力と経済力で旧植民地を完全にその支配下に置こうとしているのが明々白々だからだ。すでに述べたようにロシアは世界的なプレーヤーではなくないとしても、地方的な支配者であることに間違いはない。イデオロギー的には、現在の地方の支配者たちはそれぞれまったく異なっている。ロシアの特色は、それが一つの政治的ブラックホールであると言うことだ。その重力場に飲み込まれたすべてのものは消滅してしまう。ウクライナのロシア占領地がそうであるように人びとの政治生活は完全にシャットダウンされ、同時に彼らがアクセスできるどの地帯でもあらゆる形態の右翼潮流の支持を引き寄せており、今やロシアは地方においてもっとも力のある右翼国家となっている。東ヨーロッパ、コーカサス、中央アジアの諸国において、彼らは地域のネオナチに資金援助し、同性愛抑圧法の制定を援護し、軍事化を進め、民族対立を煽り、独裁者を支援し、人びとの反乱を血で消滅させつつあるのだ。

ここには二つの帝国主義は存在していない、あるのは人びとに敵対するただ一つの帝国主義があるだけである。

あなたはどちらにつくか選ばなければならない。だが今これを読んでいる瞬間でさえ遅すぎるかも知れない。

3.6.2022