私たちは『ノート』の中で、単独者であるべき理由を次のようにのべている。

「(物語のコード化)への誘惑を退けるためには、物語を語る主体があくまで「単独者」であることを維持しなければならない。つまり、語られたある物語は、「単独者」と共に死すべき運命にあるということであり、それを受け入れることである。言い換えれば、これまでのような、ある物語を共通のクリード(信条)とする「党派」を形成しないということだ」

しかし、単独者であるべきなのは、ただ党派化を避けるためだけでなく、より積極的な意味がある。「ノート」では文脈上触れられなかったので、ここで少し探ってみたい。

私たちが現在目撃しているのは、人間の尊厳を侵す者たちに対する人びとのたたかいが(内外を問わず)これまでのように「組織対組織」ではなく、最初から個人を起点にしたものに変容しつつあることである。

なぜそうなっているのか。共産主義を典型とする「大きな物語」が崩壊し、もはや大文字の歴史を誰も信じなくなっていることが大きい。「資本主義社会の限界を超え、新しい共同体=共産主義社会を建設することは歴史の必然である」と豪語した共産主義国家が、ファシズムをはるかに超える大量の人びとを殺戮してきたことが明るみに出た以上、それでも目的的な歴史を信じるのは狂気に等しい。そして歴史という観念が人間をマスとして扱うものであり、歴史への信仰が崩壊すれば、マスとしての人間という観念もそれと運命を共にせざるをえない。人びとはあらためてよるべない個体として時間の中に投げ出されたのである。

また、冷戦を勝ち抜いた資本主義経済が、つまり商品と市場が、現在に至るまでの30年の間、 世界の隅々まで覆いつくしてきたことが(グローバリズムと呼ばれるが)、人びとの孤立化、アトム化に拍車をかけた。すべてが商品化されていく社会にあって、商品をささえる差異化を極限まで進めようとする資本=企業によって、人びとは過酷な競争へと駆り立てられ、家庭を含めた共同体から切り離されて行く。商品を消費することが、したがってそのための貨幣を獲得することがあたかも生きることの唯一の意味であるかのような無歴史的なイデオロギーを内部でコード化することを強制されていく。

この二つの事態は相互に絡みあいながら進行してきた。しかし、資本主義経済が冷戦を勝ち抜けたのは、商品と市場がソ連、東欧圏を浸食し、やがて崩壊させていった結果である以上、根本的には後者こそ二つの事態の真のモーターである。

こうして人びとがバラバラの個人に変容させられていったのは不可避の、強いられた結果である。しかしその結果、否定的な現象と平行しながら、新しい、これまでと異なったエートス(倫理)を持ってたたかう人びとが現れているのだ。

否定的な現象とは、より幻想的なかたちで崩壊した共同性を回復しようとする動きであり、さまざまなカルトや陰謀論の台頭にみることができるだろう。

では、新しいエートスとは何か。

人びとが、孤立し、身体さえボロボロにされるほど追い込まれたどん詰まりで逆転現象が起る。つまり、商品社会が強制し、またこの社会が依存する内部コードは、それを承認し、服従する主体を条件としてはじめて成り立つこと、だからこそ主体=個人としてコードから離脱することは可能だということが見抜かれることになる。

コードからの離脱は人間としての誇りを奪い返すことであり、やがてこの誇りが、自分や他者にコードを強制してくる者に対する怒りを生み出し、たたかいへの意志が生まれる。だがこの時人びとは、自分たちのまわりに頼るべき組織も共同体もないことに気付かざるをえない。人間の権利や尊厳を守ると宣言してきた組織(たとえば政党や労働組合)のほとんどすべてが今やコード化の共犯者に転落しているからだ。

この地点から「もはやどんな理念も、どんな組織や共同体も頼れないなら、自分を頼るしかない」という自覚が、つまり自分の内部の義憤や同情を唯一の動機、唯一の判断基準としてたたかうしかないという新しいエートスが人びとの中から生まれてくる。

たとえば、ネットというレイヤーで、ハッキングを主な武器にたたかうアノニマスのスローガンは、

We are Anonymous.
We are Legion.
We do not forgive.
We do not forget.
Expect us.

というものであるが、ここに新しいエートスが巧みに表現されている。理念は唱われておらず、ただ「許さない」、「忘れない」という復讐の言葉が使われているのは、彼らのたたかいが個人の義憤を起点にしたものであることを示すものだ。そして、個人が単位であるからこそ、大文字の歴史を召還するような名を必要としないAnonymousであり、同時にその不定形の群れであるLegionなのだ。ここでは単独者=匿名=群れという等式が置かれていることになる。

単独者であるのは、もはや依拠できるのは自分の身体だけであるという状況に私たちが追い込まれているからに他ならないが、この敗北によってこそ、これまでありえなかったような創意工夫に満ちた反撃が可能になっているのだ。それはよく言われるように人びとがネットという新しい武器=ツールを持てるようになったことに限られない。より深いところにあるのは、単独者にとって、もはや権威や組織や集団の制約、コードに縛られず、いつ、どこで、どうたたかい、どう退却するかを人びとが自分でコントロールできるようになることである。

アノニマスが”Expect us.”と言う場合、これから予想もしない時と所とやりかたでたたかいが展開されるだろうということが含意されている。同時にまた、そのたたかいが人びとの間に予想もしない反響を呼び起こし、より大きな群れが生まれるかも知れないということも示唆されている。

単独者としてのたたかい、群れとしてのたたかいはいつも予測不可能性を伴う。たたかいに周到に用意されたプランはないからだ。言うまでもなく、このことはたたかいを抑圧し、弾圧する側にとって頭痛の種になるだろう。たとえばアノニマスやJ・アサンジがはじめたウィクリークス(Wikileaks)のたたかいに対し、アメリカをはじめ各国政府は混乱し続けている。

単独者と群れのたたかいは、既に始まっており、これからもあちこちで起ってくるだろう。それは必然である。

彼らのたたかいでもう一つ、注目すべきことがある。注意深い読者は、彼らが立ち向かう対象にたとえば「抑圧する者」という表現を使い、「抑圧する組織」あるいは「国家」という抽象的な言葉を避けてきたことに気づいただろう。そう、対象は、具体的な、今そこにいる、抑圧に加担している人間に向けられているのだ。アノニマスの標語の「決して許さず」、「決して忘れない」という復讐の言葉は、このことの表現であり、そこで問題にされているのは、たたかう個人が自分の誇りを取り戻すプロセスと同じ平面上にある、抑圧に加担する人間の責任なのだ。

しかしこのことは、たたかいの標的が企業や国家であったしても、さらには、そのたたかいを通じて、ひたすら商品の差異化と市場拡大に向かうことを運命づけられている資本主義経済に打撃を与え、堀崩すものになるとしても矛盾しない。どのような企業も、国家も組織として固有性を持っているが、そのエンジンは抽象的な資本や官僚制ではなく、その役割を果たしている具体的な人間だからだ。この人間の責任を問い、追いつめ、最後は力を奪うか、あるいは味方に引き入れるかが焦点になるだろう。最後の逆転劇は、抑圧する側でもいつだって起こりうるのだ。企業や国家内からの「内部告発」はまさにそんな逆転劇の結果に他ならない。

だから、たたかいに予定調和的な結末はなく、どっちに転ぶかわからない。

最後に再確認しておく必要があるのは、いま単独者たちの多くが、漠然と資本主義経済そのものを「諸悪の根源」という形で対象化しているとしても、そしてそれが決して間違っていないとしても、資本主義のあとに来るべき新しい共同体はまだカッコに入れられているということである。私たちはどうなると悲惨な結果を生み出してしまうかという負の経験は重ねてきた。しかしまだポジティブな青写真は手にしていないのだ。

しかしこれははたして否定的なことだろうか。むしろ肯定的な事態であり、たたかいがどっち転ぶかわからないことと同様に、そこに私たちの希望があるのではないか?