<目次>
- 声明の内容
- 代理戦争論は妥当なのか?
- 戦争は自然災害か?
- 朝鮮戦争のアナロジーは成り立つのか?
- 部分停戦は実現しているのか?
- 停戦協議提案はなぜ欺瞞的なのか?
- なぜウクライナの当事者性が見えないのか?
- 露骨な自国中心主義
- なぜ侵略を理解できないのか?:無意識の大国主義
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本年4月5日、和田春樹、伊勢崎賢治氏らが呼びかけ、学者やジャーナリストの方々30名が賛同して、「2023年5月 広島に集まるG7指導者におくる日本市民の宣言 今こそ停戦を!」の声明が出された(リンク先のサイトでは声明本文の他に呼びかけ人による記者会見動画も掲載されている)。声明では「クラウドファンディングで資金を集め、この声明を広告としてJapan TImes紙に掲載し、開催当日、会場と各国首脳たちの宿泊ホテルで配布する」とされていた。
この声明が出されると、ただちにSNSで批判の声があがった。声をあげたのは私が知る限り、1999年の第二次チェチェン戦争いらいチェチェン人を支援してきた「チェチェン連絡会議」の面々とジャーナリストの林克明氏、またウクライナ現地で取材してきた志葉玲氏、ノンフィクション作家の加藤直樹氏、武器取引反対ネットワーク(NAJAT)代表の杉原浩司氏たちである。彼らはいずれも声明のいう「即時停戦論」が実質的に侵略者ロシアを利するものだと批判している。それぞれの発言は、本稿の最後にリンクをはり紹介するのでぜひ参照いただきたい。
私たちも昨年、ロシアのキーウ侵攻直後の3月に『ウクライナの現実と「絶対平和主義」の罠』という記事で「即時停戦論」を同様の理由で批判した。
本稿では、前掲記事と重複するところがあるが、声明そのものに即して提案されている「即時停戦」を批判しておきたい。本来はG7開催前に公にすべきものであり、また声明からもかなり時間が経過していて時宜を失したことは否めないが、なお戦争は継続中であり、この声明で表明されている「即時停戦論」のロジックが呼びかけ人にとどまらず、現在もあちこちで反復されているので、現段階で批判することに一定の意義はあると私たちは考える。
声明は短いので、未読の方はまず一読いただければと思う。
声明の内容
「Ceasefire Now!今こそ停戦を」
「No War in Our Region! 私たちの地域の平和を」
–2023年5月広島に集まるG7指導者におくる日本市民の宣言 —
私たちは日本に生きる平和を望む市民です。
ウクライナ戦争はすでに一年つづいています。この戦争はロシアのウクライナへの侵攻によってはじまりました。ウクライナは国民をあげて抵抗戦を戦ってきましたが、いまやNATO諸国が供与した兵器が戦場の趨勢を左右するにいたり、戦争は代理戦争の様相を呈しています。数知れぬウクライナの町や村は破壊され、おびただしい数のウクライナ人が死んでいます。同時にロシア軍の兵士もますます多く死んでいるのです。これ以上戦争がつづけばその影響は地球の別の地域にも広がります。ロシアを排除することによって、北極圏の国際権益を調整する機関は機能を停止し、北極の氷は解け、全世界の気候変動の引き金となる可能性がうまれています。世界の人々の生活と運命はますますあやうくなるのです。核兵器使用の恐れも原子力発電所を巡る戦闘の恐れもなお現実です。戦争はただちにやめなければなりません。
朝鮮戦争は、参戦国米国が提案し、交戦支援国ソ連が同意したため、開戦一年と15日後に、正式な停戦会談がはじめられました。ウクライナ戦争では開戦5日目にウクライナ、ロシア二国間の協議がはじめられ、ほぼ一カ月後にウクライナから停戦の条件が提案されると、ロシア軍はキーウ方面から撤退しました。しかし、現実的な解決案を含むこの停戦協議は4月はじめに吹き飛ばされてしまい、戦争は本格化しました。以来残酷な戦争がつづいてきたのです。開戦一年が経過した今こそ、ロシアとウクライナは、朝鮮戦争の前例にしたがって、即時停戦のために協議を再開すべきです。Ceasefire Now!の声はいまや全世界にあふれています。
幸いなことに、この戦争において、穀物輸出と原発については、国連やトルコなどが仲介した一部停戦がすでに実施されています。人道回廊も機能しています。こうした措置は、全面停戦の道筋となりうるのです。中国が停戦を提案したこともよい兆候です。ヨーロッパ諸国でも停戦を願う市民の運動が活発化しています。G7支援国はこれ以上武器を援助するのではなく、「交渉のテーブル」をつくるべきなのです。グローバル・サウスの中立国は中国、インドを中心に交渉仲裁国の役割を演じなければなりません。
ウクライナ戦争をヨーロッパの外に拡大することは断固として防がなければなりません。私たちは東北アジア、東アジアの平和をあくまでも維持することを願います。この地域では、まず日本海(東海)を戦争の海にはしない、米朝戦争をおこさせない、さらに台湾をめぐり米中戦争をおこさせない、そう強く決意しています。No War in Our Region!―-私たちはこのことを強く願います。
日本は1945年8月に連合国(米英、中ソ)に降伏し、50年間つづけてきた戦争国家の歴史をすて、平和国家に生まれ変わりました。1946年に制定した新憲法には、国際紛争の解決に武力による威嚇、武力の行使をもちいることを永久に放棄するとの第9条が含まれました。日本は朝鮮の独立をみとめ、中国から奪った台湾、満州を返したのです。だから、日本は北朝鮮、韓国、中国、台湾と二度と戦わないと誓っています。日本に生きる市民は日本海(東海)における戦争に参加せず、台湾をめぐる戦争にも参加することはなく、戦わないのです。
私たちは、日本政府がG7の意をうけて、ウクライナ戦争の停戦交渉をよびかけ、中国、インドとともに停戦交渉の仲裁国となることを願っています。
2023年4月5日
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この声明を読まれた方は誰しも、幾つかの違和感を持たれるだろう。以下声明に沿って私たちが感じる違和感について述べたい。
代理戦争論は妥当なのか?
冒頭では、この戦争が「ロシアのウクライナへの侵攻からはじまり」、それに対し「ウクライナが国民をあげて抵抗戦を戦ってきた」と述べられている。ロシアの「侵攻」が「軍事侵攻」であったことが曖昧にされているのは気になるが、ウクライナ国民の「抵抗戦」を含め、ここでの指摘は間違っていない。だがすぐその後に続けて「NATO諸国が供与した兵器が戦場の趨勢を左右するにいたり、戦争は代理戦争の様相を呈しています」と唐突に、この戦争が代理戦争になっていると主張されている。なぜ代理戦争になっているかといえば、「NATO諸国が(ウクライナに)供与した兵器が戦場の趨勢を左右するにいたった」からだという。だがこれは極めてアンバランスで、かつ不正確な事実認識である。第一に、NATOのウクライナ軍事支援だけが問題にされ、ウクライナを圧倒するロシアの軍事力にはまったく触れられていない。第二に、バフムトをめぐる両軍の死闘などから判断しても、NATOの武器供与によってウクライナが戦場の趨勢を左右する事態になっていると必ずしも言えない。ウクライナがかろうじてロシアの攻撃を防ぎ、凌ぎながら反撃の体制を必死で準備している状態にあるというべきだろう。だがそのことよりも「代理戦争」というとらえ方自体が問題である。第一に、ウクライナがNATOの代理としてロシアと戦っているというなら、それは事実を歪曲するものだ。2014年以降、ウクライナがNATOに軍事支援を要請してきたのは事実だろうが、その契機となったのは同年のロシアによる違法なクリミア併合であり、さらにはドンバス地方における親ロシア派支援のためにロシアが軍事介入したことであった。つまりNATOをウクライナに呼び込んだのはロシアなのだ。今次のウクライナ戦争で、ロシアの侵略の現実的危険を感じたノルウエーやスエーデンが急いでNATO加盟に動いたのも同じ道理だろう。第二に、代理戦争というなら、ロシアはいったい誰の代理としてウクライナと戦っているのか? ドンバス地方の親ロシア派を代理しているのだという主張なのかも知れないが、親ロシア派の実態がロシア軍であるのは「公然の秘密」であるほど知られた事実であるし、ウクライナ全土にミサイルを打ち込んでいるのは親ロシア派ではなくロシア軍であるのも明白な事実だ。つまり代理する者など誰もいないのであり、ロシアはウクライナの占領=領土拡張(時代錯誤の大ロシア主義)と植民地的収奪という自らの利益ために戦争をはじめたと言う以外にない。したがってこの戦争の性格は代理戦争などではなく、「軍事大国ロシアによるウクライナに対する一方的な国際法違反の侵略戦争と、それに対するウクライナの自衛のための抵抗戦争」というべきである。
戦争は自然災害か?
次に声明は、この「代理戦争」によってウクライナの国土が破壊され、ウクライナ、ロシア双方で多くの死者が出ているとした上で、「これ以上戦争がつづけばその影響は地球の別の地域にも広がる」といい、その例示として、EUやNATO諸国が国際政治から「ロシアを排除すれば」、「北極圏の国際権益を調整する機関は機能を停止し、北極の氷は解け、全世界の気候変動の引き金となる可能性がうまれる」、また「核兵器使用の恐れも原子力発電所を巡る戦闘の恐れもなお現実である」と恫喝めいた言葉が並べられている。ここでは戦争批判が、ロシアのウクライナ侵略に対してではなく、またいうところの「代理戦争」でもなく、戦争が継続すること自体や、ロシアを排除することに転換され、それが(またもや唐突に)「気候変動」をもたらすとされている。この理屈でいえば、ウクライナの食物輸出が妨害されたことによって世界的な食料価格急騰が起こっていることも国際的影響のリストに付け加えることができただろう。違和感は、あたかも戦争の継続が世界に影響を与える自然災害のように語られている点にある。しかしこれらの問題は、すべてロシアがウクライナを侵略したことを起点とするものであり、そうである以上、ロシアが「主体的」に侵略を中止すればただちに解決するものである。「核兵器使用の恐れ」や「原子力発電所を巡る戦闘の恐れ」についても同様である。二つとも戦争当事者双方によって引き起こされているのではなく、もっぱら核保有国であるロシアがウクライナやNATO、さらには世界に対する恫喝として利用しているものだ。この戦争が開始されてから、プーチンやメドヴェージェフが何度「核攻撃の可能性」を口にしてきただろう。戦争の性格の誤った(あるいは意図的な)把握が、ここでは戦争を仕掛けたロシアの責任を免罪する機能を果たしている。
朝鮮戦争のアナロジーは成り立つのか?
続いて、朝鮮戦争を歴史の教訓として引きながら、昨年3月いったん始まったロシアとウクライナの停戦交渉は頓挫したが、1年を経過した現在が交渉を再開するチャンスであり、即時停戦の協議を始めるべきだと呼びかけられる。しかしここでも問題がある。第一に、今次のウクライナ戦争を朝鮮戦争にアナロジーし、停戦を語るのは無理がある。というのは、朝鮮戦争が冷戦時代のはじまりにおけるアメリカと中・ソ(東西陣営)の「代理戦争」としての性格を色濃く持っていたのは確かであるが、同時に、第二次大戦における連合国側の勝利と日本帝国の敗北にともなう戦後処理と関連する側面、つまり日本帝国の植民地であった朝鮮の独立を連合国側がどう保障するかという側面(これは日本の戦争責任を問うことでもある)を持っていた。この二つの側面が絡み合っていた点で、朝鮮戦争を単純に東西両陣営による「代理戦争」とみなすことはできない。
部分停戦は実現しているのか?
第二に、「現実的な解決案を含むこの停戦協議は4月はじめに吹き飛ばされてしまい、戦争は本格化した」と言いながら、なぜそれが「吹き飛ばされた」のか、その理由に触れていないのもアンフェアである。停戦協議が中断したのは、4月に入ってキーウ近郊の村ブチャでロシア軍による村民の虐殺が発覚したからである。いうまでもなく戦闘員以外の市民を殺害するのは戦時国際法に違反する戦争犯罪であり、これにウクライナ側が反発し、ロシアがその実行責任者を明らかにし裁判にかけるまで停戦協議はできないと協議を打ち切ったのが事実経過である。協議が「吹き飛ばされた」原因がロシアの戦争犯罪にあったことに言及しないのは不誠実な態度と言わざるをえない。第三に、即時停戦実現の可能性があることが、「穀物輸出と原発については、国連やトルコなどが仲介した一部停戦がすでに実施されている」し、避難のための「人道回廊も機能して」おり、「こうした措置は、全面停戦の道筋となりうる」のだと強調されているが、ここであげられた措置がいずれも不十分であり、部分的なものにとどまっているのは報道もされている周知の事実である。トルコの仲介でいったん合意が成立した穀物輸出は、その後にロシアがたびたび妨害しているし、原発についても、国連が仲介し、現地に国連職員を派遣しているにもかかわらず、現在にいたるまでロシアはザポリージャ原発に軍を常駐させて軍事拠点化し、ウクライナの攻撃に対する盾として利用しつづけている。また中立である「中国が停戦を提案したこともよい兆候だ」と言われているが、中国が密かにロシアに半導体など兵器製造に必要な部品を輸出し、国連におけるロシア非難決議に反対票を投じていて到底「中立」とは言えず、実際にも、5月に入って明らかになった中国の停戦提案の内容は、クリミアはもちろん今回ロシアが強制併合した四つの州をロシア領と認めることを前提条件にするもので、100%ロシアに有利なものであった。これではウクライナが呑めるはずがない。つまり部分的停戦が「全面停戦の道筋となりうる」のは現在のところ空論に過ぎないのである。ウクライナがテーブルに着ける停戦協議があるとすれば、それは侵略戦争を仕掛けたロシアが軍をウクライナ領土から全面撤退させることをスタートラインとするもの以外にはないだろう。
停戦協議提案はなぜ欺瞞的なのか?
次に声明は、停戦協議がどう実現されるべきかをめぐって基本的立場が述べられているが、結論を先にいえばこの部分に声明の欺瞞性が浮き彫りになっている。
声明は「G7支援国はこれ以上武器を援助するのではなく、『交渉のテーブル』をつくるべきで…グローバル・サウスの中立国は中国、インドを中心に交渉仲裁国の役割を演じなければならない」と言う。交渉のテーブルを準備するのはG7諸国であり、彼らにその役割を促すのはグローバル・サウスの中国、インドだというわけだ。だが、これらの国々が交渉のテーブルを準備するためにはそもそもウクライナとロシアに交渉の意思がなくてはならない。ウクライナ、ロシアのどちらかから停戦協議に向けた仲裁の要請がこれらの国々にある場合には当該当事者の停戦への意思は明確だとみなせるが、この場合でも、相手方当事者が仲裁に同意しなければテーブルは用意できない。そこで、どちらからも要請がない場合、「当事者の意思に任せれば当面停戦は不可能であり、それでは戦争の犠牲者が増える一方だから、当事者の意思に反してでも停戦交渉のテーブルに着くように圧力を加えるべきだ」という発想が出てくる。この論理は、たとえば帝国主義(植民地主義)国家同士がある国の領有と支配をめぐって戦争をしている場合や、二つの国家が、領土や民族をめぐる紛争を以前から抱え、それが戦争に発展したような場合には妥当性を持つだろう。これらのケースでは、それぞれの主張の正邪は別にして、戦争当事国が対等の立場だと判断できるがゆえに、国際社会が「当事国の意思に反してでも停戦交渉のテーブルに着くように圧力を加える」ことが許されると考えることができる。だが、当事国の一方が他方を侵略している場合にはこの論理は妥当しない。この場合、両当事国は対等の立場ではなく、非対称である。つまり、一方は国際法に違反する侵略国家であり、他方は不当に侵略されている被侵略国家であり、国連に代表される国際社会から無条件で非難され、軍事行動をただちに中止することを求められるのは両当事国ではなく、あくまで侵略国家側である。実際、戦争がはじまってから、国連総会では三度にわたり圧倒的多数の賛成でロシアに対する非難決議が出されているが、決議ではその都度、① ロシアのウクライナ領土の一部併合がウクライナの主権を侵害するもので無効であり、②ロシアは「ウクライナ国境内の領土から、直ちに、完全かつ無条件にすべての軍を撤退させること」、をロシアに要求しているのである(カッコ内は本年3月23日の決議から) 。正当な決議というべきであろう。
今次のウクライナ戦争で侵略国ロシアと非侵略国ウクライナが非対称な関係にあることは明白であり、声明がこのことを無視して、あたかも両者が対等の立場で戦争しているかのような前提に立ち(国連決議にある、ロシアに対する非難や軍の全面撤退にも言及せず)、即時停戦にむけて「G7が交渉のテーブルを準備すべきだ」と主張するのはウクライナにとって非現実的な提案にならざるをえない。というのは、「即時停戦」とは交戦当事国が現在の交戦状態で戦闘をただちに停止(halt)することを意味する以上、必然的にロシアの現在の軍事的占領が事実状態として認められ、それが交渉の前提とされるからであり、そうである以上、ちょうど中国の停戦提案がそうであったように、最終的にはウクライナになんらかの範囲で「領土の譲歩(割譲)」を強いる結果にならざるをえないからである。このような結果は、ウクライナが受け入れられるものではない。
なぜウクライナの当事者性が見えないのか?
声明の「即時停戦」の呼びかけは、本来、侵略/被侵略という非対称な関係にあるロシアとウクライナをあたかも戦争当事国として対等な関係であるかにように扱うことにおいて欺瞞的なのである。では、なぜ欺瞞的になってしまうのか。この問いは、呼びかけ人たちが、なぜ眼前に展開されている侵略/被侵略の非対称性を見ることができないのかと問うことでもあるが、一つの答えは、私たちも上掲の小論で指摘したが「戦争は絶対悪であり、いかなる理由があろうとも反対しなければならない」という「絶対的平和主義」の罠に足を掬われているからというものである。もう一つは、「ロシアが非難されるべきなのは当然だが、ロシアの封じ込めを狙うアメリカとNATOがウクライナの背後で戦争を煽っている以上、ウクライナもまた非難されるべきだ」という、単純化していえば「アメリカ帝国主義元凶論」に目を曇らされているからだというものである。これら二つの回答は大きくは間違ってはいないだろう。しかし私たちはここで、「絶対的平和主義」と「アメリカ帝国主義元凶論」に共通する問題を取り出す必要がある。それは侵略/被侵略の非対称性から生まれるウクライナの人々の当事者性が見失われていることである。ロシアの理不尽な侵略を受けたウクライナの人々が、① 侵略にどう対応するかをめぐり、降伏するか、抵抗するか、② 抵抗するとしてもその戦い方をどうするかをめぐり、武装するのか、非武装で戦うのか、③戦争終結をめぐり、どこで停戦するか、停戦内容をどうするか、などはすべてウクライナの人々しか決められないし、決めるべきことである。このことをさした歴史的な言葉が「(民族)自決主義」であり、今様の言葉を使えば「当事者主義」ということになるだろう。この自覚がない、ないし不十分であるからこそ、ウクライナ戦争の非対称性が見えず、したがってウクライナの人々の頭越しに、現実性を欠いた「即時停戦」提案を出すことになっていると私たちは考える。
ここで私たちはさらに「呼びかけ人たちが、ウクライナの当事者性を無視できるのはなぜなのか」という問いに直面することになるが、実はこの答えは、声明の結論めいた部分に浮かび上がっているのである。「浮かび上がっている」という主体を抜きにしたような言い方をするのは、問いに対する答えを、声明文の書き手が無意識のうちに表現してしまっているからである。
露骨な自国中心主義
結論部分では、まず「ウクライナ戦争をヨーロッパの外に拡大することは断固として防がなければならない」と断言されている。戦火の拡大を望む者は誰もいないだろうという意味ではこのことは間違っていない。しかし違和感は、その後に「私たちは東北アジア、東アジアの平和をあくまでも維持することを願う」、「No War in Our Region!―-私たちはこのことを強く願う」と、この声明の目的であるはずのウクライナでの戦争終結にむけて私たちが何ができるかから、いきなりアジアの平和を守ることが持ち出されている点にある。この部分を読むウクライナ人が(いやウクライナ人でなくとも)、「この声明の呼びかけ人たちは、ウクライナ人の現在の苦難ではなく、ウクライナ戦争がアジアに飛び火し、アジアで戦争が起こる、つまり自分たちが戦争に巻き込まれるのは困るから、戦争をやめてもらいたいと考えているのか?」と解釈してもおかしくはないだろう私たちは考える。もちろんアジアで戦争が起こるのは日本人をふくめアジアの誰も望んでいないし、避ける努力をすべきなのは言うまでもない。しかし、ここで唐突に言及されている「米朝戦争」も、「台湾をめぐる米中戦争」も、現在のウクライナ戦争のいったい何が契機となって、誘発される可能性があるのかをまったく説明がないまま「No War in Our Region!」とウクライナの人々に呼びかけるのは露骨な自国中心主義と批判されても仕方ないであろう。そしてこの「露骨な自国中心主義」は書き手が無意識で表明してしまっている。声明がウクライナの当事者性を無視してしまったのはこのことが原因だと私たちは考えるが、問題にしたいのは、この「露骨な自国中心主義」のルーツがどこにあるのかである。声明からの以下の引用に注意いただきたい。
なぜ侵略を理解できないのか?:無意識の大国主義
「日本は1945年8月に連合国(米英、中ソ)に降伏し、50年間つづけてきた戦争国家の歴史をすて、平和国家に生まれ変わりました。1946年に制定した新憲法には、国際紛争の解決に武力による威嚇、武力の行使をもちいることを永久に放棄するとの第9条が含まれました。日本は朝鮮の独立をみとめたのです。だから、日本は北朝鮮、韓国、中国、台湾と二度と戦わないと誓っています」
短い声明でG7の首脳たちに歴史を簡略に説明するしかないのでこういう表現になったという言い訳を差し引いたとしても、第二次大戦の日本の敗北が「連合国への降伏」とだけ説明され、その結果、「戦争国家の歴史をすて、平和国家に生まれ変わった」といい、その証拠として憲法9条を挙げた上で、「朝鮮の独立を認め、中国から奪った台湾、満州を返した」という書き振りに違和感を感じられないであろうか。
何より、日本の敗北は連合国によってもたらされただけでなく、日本帝国が植民地としてきた国々の人々の抵抗と反撃によるものでもあったことが欠落している。「降伏」したのは正確には、連合国とアジアの人々に対してである。つまり日本帝国はその植民地の確保と拡大をめざした侵略戦争において敗北したのであり、そうである以上、「朝鮮の独立を認めた」ことや「台湾や満州を返した」のは日本帝国が自発的に行ったのではなく、軍事的に敗北したことによって力で強制されたからだと言わなければならない。したがって「認めた」とか「返した」という表現はまったく妥当性を欠いている。「連合国への降伏」を理由としてあげながら、なぜあたかも日本が自発的に「朝鮮の独立をみとめ」、「中国から奪った台湾、満州を返した」かのような言葉を使っているのか、ここに私たちの違和感は起因するが、それは、単なる声明文の一般的形式や言葉遣いの問題ではなく、おそらく日本帝国の敗北がたんに連合国にたいする軍事的敗北だけでなく、上に述べたように同時にアジアの人々による反植民地闘争にたいする道義的な敗北でもあったことを正面から認めたくない(あるいは認められない)メンタリティーが無意識的にあるからだろうと思われる。
植民地獲得をめざした侵略戦争が道義的に許されないし、いずれは敗北する運命にあることは第二次大戦からの教訓としてすでに国際的に確立されて久しいし、日本でも確立されているはずだと私たちは考えることに慣れているが、この声明を読むと、実は起草者や、さらには賛同者として名を連ねた人たちが「侵略」の意味を十分に理解していない、分かっていないのではないかという深刻な疑問に行き着く。実際に、この声明文には一ヶ所「ロシアの侵攻」という表現があるものの、「侵略」あるいは「侵略戦争」という言葉は一切使われていないのである。もちろん、ウクライナ戦争が「ロシアの侵略戦争」によってはじまったと定義すれば、(上で述べてきたように)戦争を終結させ、和平を実現するためには、国連決議もそう要求しているように、まずロシアがウクライナ領土から完全撤退することが先決問題になるが、そうなれば「即時停戦」の提案が無意味になってしまうためだろう。しかしそれが主な理由ではないと思われるのは、この声明に賛同者として名を連ねている人たちの大半が、戦前の日本帝国を、したがってその植民地政策を否定し、戦後の立憲主義とデモクラシー、平和主義を全面肯定してきたリベラル派だというところからうかがえるのだ。なぜなら、彼らがリベラルであれば、ウクライナ戦争では国連決議と同様に、まずロシアの侵略を問題にするはずだし、ウクライナの苦難に寄り添う立場から容易な自国中心主義にもとづく「即時停戦」提案に疑問符をつけるはずだし、さらには日本帝国による侵略にたいし、声明文の書き振りのように無自覚であるはずがないからである。だが実際には声明に賛同し署名している。ということは、彼らもまた声明起草者と同様に無意識では「日本帝国の敗北がたんに連合国にたいする軍事的敗北だけでなく、アジアの人々による反植民地闘争にたいする道義的な敗北でもあったことを正面から認めたくない(あるいは認められない)」からではないかと推測できるのだ。この無意識のメンタリイティー、あるいはマインドセットを名付けるとすれば、「帝国主義」と言わないまでも「大国主義」と言うべきだろう。「大国主義」とは、歴史的に常に大国の脅威にさらされ、ときに侵略を受けて植民地的地位に落としめられる弱小国や周辺国の人々がどのような苦悩と悲惨を背負って生きているかを理解する感受性を失わせるマインドをさす言葉である。
賛同者の方々の名は声明文の下にあげられているが読者の便宜のためにここに引いておこう。たぶん皆さんは驚きとともに、あらためて日本のリベラリズムとは何だったのだろうという思いに襲われることだろう。
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伊勢崎 賢治(東京外国語大学名誉教授・元アフガン武装解除日本政府特別代表)
市野川 容孝(東京大学教授)
上野 千鶴子(東京大学名誉教授)
内田 樹(神戸女学院大学名誉教授、武道家)
内田 雅敏(弁護士)
内海 愛子(恵泉女学園大学名誉教授、新時代アジアピースアカデミー共同代表)
梅林 宏道(NPOピースデポ特別顧問)
岡本 厚(元『世界』編集長・前岩波書店社長)
金平 茂紀(ジャーナリスト)
姜 尚中(東京大学名誉教授)
古関 彰一(獨協大学名誉教授)
小森 陽一(東京大学名誉教授)
酒井 啓子(千葉大学教授)
桜井 国俊(沖縄大学名誉教授)
鈴木 国夫(「市民と野党をつなぐ会@東京」共同代表)
高橋 さきの(翻訳者)
高村 薫(作家)
田中 宏(一橋大学名誉教授)
田中 優子(前法政大学総長)
田原 総一朗(ジャーナリスト)
千葉 真(国際基督教大学教授)
暉峻 淑子(埼玉大学名誉教授)
西谷 修(東京外国語大学名誉教授)
羽場 久美子(青山学院大学名誉教授)
藤本 和貴夫(大阪経済法科大学元学長)
星野 英一(琉球大学名誉教授)
マエキタ ミヤコ(環境広告サステナ代表)
水島 朝穂(早稲田大学教授)
毛里 和子〈早稲田大学名誉教授〉
吉岡 忍(作家・元日本ペンクラブ代表)
和田 春樹(東京大学名誉教授)
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以上が声明に対する私たちの批判である。私たちは自国中心主義や大国主義にもとづく声明の「即時停戦」提案に反対する。そしてこれらのマインドが無意識的なものだとすれば私たちも無縁ではありえない。したがって自戒の念をこめつつ、あくまでウクライナの人々の民族自決を前提に、ロシアの侵略に対し、自衛武装たしてたたかうウクライナの人々を支援していきたい。なお、ウクライナの人々の自衛武装を支持する理由については、以下の『国家と民衆の自衛権について』で述べているので参照していただければ幸いである。
声明批判の立場を明らかにしている人たちの発言は以下で知ることができる。
チェチェン連絡会議 「ロシアを利するような停戦ではなく、ロシア軍のウクライナからの撤退を!」
林克明氏 「ウクライナンとチェチェン~チェチェン戦争から始まったプーチンの戦争」
志葉玲氏 「ウクライナ現地報告とイラク戦争20年」
加藤直樹氏 「ウクライナのグループ「社会運動」支援について」
杉原浩司氏 「ウクライナ戦争 試練に立つ日本の平和主義~「左派・リベラル」知識人・市民運動の分断と混迷」(前編と後編あり)
2023年6月6日