3月29日に投稿した『ウクライナの現実と「絶対平和主義」の罠』を読んでいただいた方の中には、自衛権について、「個人の自衛権(正当防衛)をそのまま国際法上の国家の自衛権に拡大しているように見えるがそれは妥当なのか?」という疑問を持たれたかも知れない。当然の疑問であり、やっかいな論点であるがやはり避けて通ることはできないだろう。そこで以下、最低限言える範囲でこの論点を少し考えてみたい。

現在ウクライナで起こっていることを直視すると、ウクライナが国家としてロシアの侵略に抵抗・反撃している次元(国家の自衛権)と、ウクライナの地に住み、生活する民衆(以下民衆)が侵略に抵抗・反撃している次元(民衆の自衛権)があり、次元が異なるこの二つの自衛権が重なっている局面ととらえることができるのではないかと思う。

国家の自衛権については、本来国家はいずれ消滅すべきである、あるいは消滅するであろうと考える立場に立つとしても、当面国家が存在し、その上で国際政治が動いている以上、その限りで国家の自衛権を検討せざるをえない。この前提で考えた場合、以下の定義を承認していいだろう。すなわち、国家の自衛権は、戦争そのものを違法であるとした不戦条約成立(1928年)の後でも、「独立国であれば、外国から急迫不正の侵害を受けたときに、自衛のために武力行使を行う固有の権利として、国際法上も、国際慣習法でも認められたもの」とされている。

なぜ国家に自衛権が認められるのかは、基本的に、「国家が個人の集合体である以上、個人に自然権として正当防衛が認められるなら、当然国家にも認められる」と考えられたからだと想定していいだろう。個人の正当防衛が類推されるので、国家の自衛権が認められる場合にも、その行使は「武力攻撃が発生した場合」に限定され(争いはあるが予防的先制攻撃は禁じられる)、かつその武力攻撃が違法不当であり、自衛行動が武力攻撃と均衡していることが要件とされている。今回、ロシアの一方的な侵略(武力攻撃)に対し、ウクライナが国家として武力で抵抗・反撃する行為が、自衛権の発動として認められるのは明らかだろう。なお国連憲章51条が自衛権を認めている。

国連憲章 第51条〔自衛権〕
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国が措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない…

民衆の自衛権については、個人の正当防衛をベースとしながら、一定の地域において個人が横に水平的につながり、集合的に行使されるもので、国家と垂直的に結合していないものと定義しておきたい。したがってこの定義を前提にすれば、国家の自衛権と民衆の自衛権は質的に異なった次元にあると言える。

現在ウクライナでは、表面的に国家が全面的に前に出た抵抗・反撃がすべてであるように見えている。つまりウクライナの軍と民衆が一体となって(両者が完全に重なって)闘っているかのように見えるし、実際そういう局面であるだろう。この局面では、「祖国を守ろう」というナショナリズム*が二つの次元の差異を覆っている。

* ナショナリズムとはいま辞書的な定義に従えば、「国家や民族の統一・独立・繁栄を目ざす思想や運動」であるが、実際には近代国家の成立が不可避に生み出す「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)である。この想像された共同体は、近代以前には、宗教が「千年王国の到来」というかたちで果たしていた失われた共同体の理念的な回復であり、一方では民衆が国民として平等に国家に参与する法の建前(国民主権)から生み出される一体感というプラス面と同時に、他方ではそれが国家と民衆の間にある支配と被支配関係および民衆の間に存在する差異を覆うマイナス面を持つ両義的なものととらえられるだろう。

したがって、違法不当な侵略に対する自衛については、国家次元の闘いに民衆次元の闘いすべてが収斂するわけではないことを出発点にすべきだと考える。実際、ウクライナの場合でも二つの自衛行動に差異があることは以下の事実が示していると思われる。①軍隊では正規軍(別の表現では常備軍)のほかに、民衆がボランティアとして参加している地域防衛隊(民兵)が存在し、実際に戦力となっていること、➁正規軍自体の士気が、「ロシアの侵略を許さない、郷土は自分たちで守るしかない」というウクライナ民衆の怒りと郷土愛によって支えられていること、③正規軍や地域防衛隊の一員とし戦場で闘うことはできない女性や若者や高齢者たちも、報道で知る限り、それぞれ自分たちが出来る範囲で手製の武器、火炎瓶(モロトフカクテル)、土嚢、軍装品などを個人や村や町でグループで製作しているし、兵站にあたる食料の提供、医療、消防、犠牲者の埋葬なども多くの民衆が担っていることなどである。つまり国家の軍隊とは相対的に区別される民衆次元での武装力が存在していると言えるだろう。

かりに今後、ウクライナ正規軍が戦闘で大きなダメージを受けて戦力が落ち、それだけではロシア軍に対抗するのが困難になった場合は、さらに多くの民衆が正規軍に志願するか、あるいは民兵組織である地域防衛隊に参加し、その弱点を補強すると考えられる。そうなると、常備軍であるウクライナ軍全体が「民衆の軍隊」としての性格を強めていくことになるだろう。つまり、二つの自衛権がより重なることになる。

侵略を前にして国家が「祖国防衛」のナショナリズムを宣揚するとき何が起こっているかと言えば、一方では「想像の共同体」の構成員(国民)として個人を召喚すると同時に、他方では、「個人が横に水平的につながり、集合的に存在する」民衆から地域共同体を守ろうとする情念(郷土愛)を汲み上げているのである。その限りで、ナショナリズムの基盤は国家と民衆で共有されている。しかし国家を支配する官僚や議員たち、有産階級(ウクライナではオリガルヒたち)が自らの権力を維持するために侵略者と手を握ったり、不当な妥協をするなど、民衆の共同体防衛の願いを裏切ることがありえる。この場合、ナショナリズムのマイナス面が強くなり、国家が民衆を支配するために利用されていることになる。歴史はむしろ、国家と民衆の蜜月は短期で終わり、国家(の支配者たち)が途中で民衆を裏切ることが圧倒的に多いことを教えている。

以上に述べてきたことをまとめれば次のように表現することができるだろう。侵略者を前に、初期段階では、国家と民衆はナショナリズムの中で共存し、一体となって闘うが、闘いのある局面で国家の裏切りが起こったり、両者の間に亀裂が入り、分裂がが起こりえる。この時、民衆は国家が指し示す方向に従うのか(つまり国家の裏切りを受け入れるのか)、それとも国家と対立してでも自分たちの願いを最後まで貫くのかの選択を迫られることになる。こうして国家と民衆の自衛権の重なりはここで分裂分岐し、民衆は外敵である侵略者と同時に国家をも敵とせざるをえなくなる。そして、国家が敵になった段階で、民衆の自衛権は抵抗権に転化し、闘いは内戦(Civil War)と呼ばれることになる。この分裂分岐は、ウクライナで言えば(複雑な要因があるものの)、2004年のオレンジ革命、2014年のユーロマイダン革命で、EU加盟をめぐって時の大統領の裏切りに憤激し、辞任に追い込んだ民衆運動として現われた。

ここで冒頭にあげた疑問に答えるとすれば、少なくとも二つの自衛権が重なっている局面、つまり「国家と民衆の蜜月」の間は、その重なりを認めウクライナ国家を支援すべきだということになる。この局面とは、言い換えれば、国家を支援することが民衆を支援することになり、民衆を支援することが国家を支援することになるような局面である。現在の大統領ゼレンスキーの支持の高さは、現在のウクライナが基本的にこの局面にあることを象徴していると言えるだろう。蜜月がいつ終るかは分からない。しかし、少なくともウクライナの軍と民衆がロシアの侵略を食い止め、さらには追放するまで共に闘っている間は継続するだろう。ウクライナのマルクス主義者であるユリヤ・ユルチェンコ氏も、インタビュー(『ウクライナ人の民族自決のための闘い』)でこの局面について次のように語っている。

「私は、国境を回復し、ロシアの占領を終わらせるための闘いでウクライナの勝利に賛成する者です。しかしそのためには、オリガルヒ(新興財閥)とその政治家たちが作り上げ、武器としてきた文化対立(*ウクライナ語話者とロシア語話者の分断など)を和解させるための全過程が人々に開かれていることが必要です。なぜそうすべきかと言えば、ロシアの侵攻がウクライナのナショナリズムの健全な部分を掻き立てたからです。とりわけプーチンが戦争の口実に「あなたの国は国ですらなかった」というレトリックを使った時がそうでした。ですから健全なナショナリズムは必要です。しかし私たちはそれが排外主義や民族主義に発展するのを防がなければなりません。….」

「国際的な連帯の立場にたつ左翼は、被抑圧民族としてのウクライナと、その自決のための闘いに連帯すべきだと思います。この闘いには、自由を勝ち取るために、私たちの戦闘員やボランティアが武器を確保する権利も含まれています」

この指摘のポイントは、健全なナショナリズムが存在している限り(私たちの言葉では二つの自衛が重なっている限りということになる)、民衆が正規軍とともに武器を持ちロシア軍と闘うことを全面的に肯定している点にあるだろう。

ウクライナの人びとの当面の課題が、自衛のための闘いに勝利し、ロシアの侵略を阻止することにあるのは言うまでもない。しかし同時に、この闘いのさなかで地域や職場やさまざまな社会領域で生まれている連帯と相互扶助の活動と組織を拡大強化し、それらを戦後のウクライナ社会の基盤として築きあげていくことにあるだろう。それは戦後のウクライナをどんな社会として再建していくかということでもある。私たちはこのウクライナ民衆の闘いの全過程で彼らを支援していくべきだと考える。