近代国家は、優生思想によって人間を選別し、国家にとって無価値な人間は国境外に追放するとともに、最終的には強制収容所内で殺戮する衝動をその成立とともに内包していることを『加速主義と優生思想』で指摘した。

またその選別が、エリートと大衆の二極に収斂し、大衆はエリートのイデオロギーへの同一化を強いられ、このこともエリートを大衆の殺戮へと誘惑する動因となることも指摘した。

人間の同一化がなぜ死を呼び寄せるのか。なぜなら「他者の同一化」に向う欲望は、死への欲望(タナトス)であり、ある地点でかならず暴力と死を招き寄せるからである。互いの差異は自然的なものであり、人間の属性として避けられないものであるにもかかわらず、それを消し去ろうとすること自体が、無理で無謀なこころみにならざるをえず、したがって最終的には暴力を、そして死もってしか実現できないからである。

すると近代国家を継承する現代国家は、最終的にはその構成員すべて殺戮し、結果として、滅亡への道をひらく「絶滅装置」ではないのかという問いにぶつかることになる。

この問いイエスと答えるとすれば、国家構成員全員を動員する総動員体制下の全面戦争、総力戦争をその例証として持ち出すことになるだろう。DAILY FLASHESの『憲法以前へ』で私たちはこのことに次のように述べた。

「敗戦直前に策定された、国民すべてを戦闘に動員する『本土決戦戦略』は(実際、一部沖縄戦で実行された)、その大前提として『国家は国民に「国家のために全員死ね」と命令する權利をもつ』ということが観念されていた」と。

あるいは、ヒットラーがベルリン陥落後、自殺する直前に、新ローマ帝国の首都たる新ベルリン(ゲルマニア)を設計していた建築家シュペーアから「私たちが敗北した後はどうなるでしょうか」と問われ、「後などない。消滅するだけだ」と答えたと伝えられているが、このヒットラーの答えも、国家の消滅がその構成員の消滅と同義であることを示唆するものである。

実際、シュペーアの設計したゲルマニアのミニチュア模型には、整然とした建造物だけが並び、人型の配置はなく、その存在がまったく感じられないものであった。それも道理で、シュペーアとヒトラーは、数千年後に廃墟になったとしてもなおその偉大さが残るような建築をめざすべきだというシュペーアの「廃墟価値の哲学」で同盟していたのだ。廃墟、すなわち絶滅があらかじめ埋め込まれた都市がゲルマニアだったのである。

だとすれば、国家がある限り、私たちは常にこの絶滅装置が発動するリスクに晒されていることになる。端的に全面戦争への誘惑である。

絶滅装置の発動に抵抗し、その動きを中断させることはできるだろう。だが、近代国家が本質において絶滅装置であるとすれば、最終的には国家を廃棄しないかぎり発動のリスクから逃れることはできない。

だが私たちは、共産主義の失敗以降、まだいかにして国家を廃棄できるのか、その見取り図を持てていない。それは、絶滅装置の発動に抵抗するたたかいの中からしか見つけ出すことができないだろう。

さしあたって言えるのは、絶滅に対する抵抗は、別の、より憲法と法にそった国家(現在流通している用語を使えば立憲主義に基づく民主主義国家)を対置することによっては成し遂げられないだろうということである。

なぜなら、現代国家こそナチスとスターリン主義敗北の上に建てられたものであるにもかかわらず、いま世界は再びファシズムの誘惑に駆られつつあるからである。1945年、いったんは体内深くに埋め込まれ、その発動を封印されていたはずの絶滅装置がふたたび再稼働しつつあるのを私たちは2020年を前に目撃している。

9.10.2019