nodej001が、2013年7月にツイッターアカウントで述べたものを読みやすいように降順で並べたもので、字数の制限で舌足らずのところは若干補足していることをお断りしておきます。またこれはあくまでノードの一人としての見解であることは言うまでもありません。

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まず何よりも、言葉が紡ぎだす物語(世界観)をカッコに入れる必要がある。

と、いう発想も言葉で書いている。だから言葉や物語をカッコに入れるとしても、実際にどうすればいいのか。言葉は避けられないし、言葉で世界について語ることもそうだ。言葉と物語の欺瞞を見破り、同時に自分たちの言葉が欺瞞に陥らないようにするにはどうすればいいのか。

何かを語る、とりわけ一つの物語を語るとき、そこには語られなかった世界があり、意識的にすてられた思考の断片がある。物語はどこまでも恣意的に編成された、背後にある動機が隠されたものである。

たぶん言葉だけで言葉を乗り越えることは不可能なのだ。それは物語に別の物語を対置することだけに終わるだろう。言葉に新しい表現ができるとすれば、言葉と無関係な「集合的な体験」が外部から暴力的に押し寄せたときだけだろう。

そのとき、言葉(主体)は混乱し、依るべきノームを失い、新しい表現を探り出そうとする。それはただちに理解され、流通することはないだろう。それまでの暗黙のコードから逸脱しているからだ。

だが、新しい表現も理解する人たちが出てくればただちにコード化し、固定化していく運命にある。というのは、もともと現実は言葉を超えたものであり、かつ時間とともに流動し、変容していくもので、言葉や物語はその後を追うことを運命づけられたものだからだ。

言葉が、つまりは人間が「これこれの概念や歴史観は普遍的である」と宣言するのは、だから常に欺瞞であり、どれだけ周到に論理づけられていてもまやかしだと考えるべきだ。どう宣言しようと、概念や観念は、どこまでも部分的、断片的で、一時的な、仮説に過ぎない。

ある言葉や物語が欺瞞の罠からどれだけ距離を取れるかは、他者の「集合的な体験」にどれだけ開かれているか、また自分たちの物語が、あくまで断片的で、一時的な仮説に過ぎず、優先権はいつも流動する現実に置かれるべきこと、言葉は何度でも死すべきことにどれだけ自覚的かにかかっている。しかし、これは言葉を発する人、物語る人に依存している以上、偶然的なものにならざるをえない。

もう一つ物語のコード化を避ける方法は、物語を共有しないことである。もちろんある物語が現実を鋭く切りとっている場合、それは人々の間で共感を生み出すし、それは自然な出来事である以上、避けられない。叫びも言葉とすれば、言葉を発し、紡ぐことは避けられない。しかし、共感が広がり、共有化が進めば、物語のコード化への誘惑が強まらざるをえない。

その誘惑を退けるためには、物語を語る主体があくまで「単独者」であることを維持しなければならない。つまり、語られたある物語は、「単独者」と共に死すべき運命にあるということであり、それを受け入れることである。言い換えれば、これまでのような、ある物語を共通のクリード(信条)とする「党派」を形成しないということだ。

もちろん現実は、人々の集合的な力で動いていく。私たちはこの動きにその部分として参加していかなければならない。しかし、私たちは党派としてではなく、あくまで単独者として参加していくべきなのだ。

単独者であるべきだということは、何もそれが主体として絶対的な基準となるべきだということではない。それどころか、私たちはもはや「主体」なるものに信を置いていない

「主体は存在しない。ただ言表行為のさまざまな集団的アレンジメントが存在し、主体化はその一つにすぎず、このようなものとして表現の形式化あるいは記号の体制を指示するのであって、言語の内的条件を指示するのではない」(ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』)

私たちがいかに無意識の情動に動かされているか、また主体的な努力などではなく、ただ他者との「集合的な体験」によってこそ変貌することを歴史から学んでいる。

その意味で、単独者は、他者と無意識的に、集合的に結びつく一つのノード(結節点)に過ぎない。

ノードがたがいに意識的に結びつくとすれば、それは党派としてではなく、互いの独立を侵犯しない一時的で、暫定的な「連合」という形式になるだろう。一つのテーマ、プロジェクトで協力しあうことがあっても、そこには党派のような永続的な盟約は存在しない。

私たちはその先駆的なかたちをネット上で活動しているアノニマス運動にみることができる。匿名(無名)であること、ボスを持たないこと、プロジェクトごとに協力しあうこと、プロジェクトが終われば解散することなどはノード連合の先駆的なかたちである。

また最近のわが国の動きでいえば、原発の全面廃炉、再稼働阻止のシングルイシューを掲げた「反原連」の活動や、在特会などのレイシズムに正面から立ち向かっている「しばき隊」の成り立ちと活動にその萌芽を見ることができるだろう。

さまざまな弱さを抱えているとしても、あくまで個人(単独者)が主体となっていること、現場で行動することを結集軸としていること、党派を組まないこと、参加も離脱も自由であることなどの活動スタイルは、これまでの社会運動になかったものであり、その革新性は高く評価されるべきであるし、実際、多くの人びとの共感を呼んでいる。

アカデミズムやメディアに住む文化左翼たちが、この間、「反原連」や「しばき隊」を罵倒しているが、それは自分たちがこれらの運動によって既に乗り越えられていることの焦りからである。原発事故を前に再稼働阻止や廃炉に向けたたたかいにいち早く立ち上がったのは、党派ではなくこれらの人びとだった。日本の社会運動は、あきらかに新しい局面に入っている。これまでのほとんどの運動は破産している。

単独者として考え、行動するということは、他(の単独)者とのさまざまな差異を当然のこととして承認することを意味している。差異を取り除き、同一性を実現しようとするときに他者に対してだけでなく、自分自身へも物語(理念)の抑圧がはじまり、転倒が起こってくる。転倒とは、人間が、ではなく観念である物語が主人になっていくことである。

他者との差異はさまざまな領域で存在しているが、一番大きいのは「立ち向かうべき敵は誰か?」という領域だろう。差異は敵のとらえかたの違いとして現れてくる。敵が明確な場合もあり、その場合、差異は微妙なものにとどまっているだろうが、それでも存在する

この差異に直面したとき、「敵は一元的な存在である」あるいは「真犯人は必ず存在する」という思考回路に踏み込んでしまうのを避けなければならない。というのは、敵はさまざまな権力(を保持している人間たち)が折り重なっている一定の組み合せ(アレンジメント)であり、しかも真犯人は不在だからだ。それどころか、敵に立ち向おうとする私たち自身の内部にも敵は存在する。

他者との差異は、したがって、この敵の多元性のどこを(権力のアレンジメントのどの次元、どの構成要素を)主に見ているかの違いとして理解すべきだろう。

そして敵(権力)も永遠のものではなく、たえず変動しているとすれば、それに応じて他者との差異もまた変化していく。だから今日敵の認識で他者と一致したからといって、明日も一致するとは限らないし、逆もまた真である。

だから、私たち自身の認識も、不動のものではなく、耐えざる「変節」がむしろ当り前と考えるべきなのだ。

「変節」は「変身」でもある。そのきっかけが何であれ、それはかって知らなかった自分(の無意識の領域)に出会うことであり、本質的に喜びの感情を伴う。そしてここでいう無意識の領域とは、自分を構成している他者のことである。

「大きい物語」に警戒心を怠らないということは、ポスト資本主義に生まれるであろう新しい共同体に予断を持ち込まないことである。はっきり言えば、それは分からないのだ。「分からない」とするからこそ、多くのノードとの出会いが広がるし、カルト化の誘惑から逃れることができる。

ただ、それは「現在」の人びとのたたかいの中から生まれてくることだけははっきりしている。たとえそれがたんなる予兆や萌芽であるとしても。新しい共同体は、いきなり千年王国的に空から降りてくる訳でもないし、ある党派の青写真によってあらかじめ描かれているわけでもない。

たたかいの現場で集合的な他者と出会い、そのことによって自分が「変身」していく。そして変身したノードの声(表現)は、他者に伝わり、それがまた私たちが予想できない他者の「変身」のきっかけとなる。この現象が「現実」を構成し、動かしていく。

そういう意味では、私たちは確かに現実を構成している。しかし、現実は私たち以外の無数の人々によっても構成されていて、単独者としての私たちはこの無数の人々と直接結びつくことができない。つまり私たちは決して現実の総体をとらえることはできないのだ。

だから繰り返せば「現実をとらえた」と僭称する人間たちとは距離をおく必要があるのだ。

「不可知論だ」という批判があるだろう。私たちはこの批判をそのまま受け入れたいと思う。その通りで、それで結構だと。しかし、近い歴史を振り返ってみても、「世界は知りえるし、設計できる」という可知論者たちこそ、もっとも抑圧的であり、大量殺戮を合理化してきたのではなかったか。かってのマルクス主義がその典型である。

あえてノードの運動を形容するとすれば、「不可知論にもとづくプラグマティスト」ということになるだろう。たたかいがある以上、目標があり、実践がある。しかし、私たちは部分部分の勝敗から学んでいくのであり、「きたるべき社会」の大風呂敷を広げることはしない。

現実が、多次元で、重層的なもの、けっして全体を見通すことはできないものだとすると、社会運動もまた同様の性質をもつと考える必要がある。どの社会運動が決定的な役割を果たすなどということをあらかじめ予想することはできない。いつどこでどのような運動が起るか、また互いに接触し、折り重なってどういう運動が生まれるかも予想できないのだ。

たとえば中央、地方の議会をめぐるたたかいのレイヤー(階層)、レイシストたちとの路上の主導権をめぐるたたかいのレイヤー、原発をめぐるたたかいのレイヤー、企業の内外で雇用と支配をめぐる労働者のたたかいのレイヤー、寄せ場労働者のたたかいのレイヤー、どれだけ現実に肉迫できるかをめぐるメディアのたたかいのレイヤーなど無数のたたかいの階層が存在する。

これらの多重のレイヤーを一つの物語で無理に統合し、フラット化することは前進ではなく、むしろ後退として、反動的なこころみとして考えるべきだ。それぞれのレイヤーのたたかいを尊重しつつ、それがいわば自然に重なってくるプロセスをフォローすべきなのだ。

ルネ.ジラールがかって「差異を人為的に消しさり、同一性を実現しようという試みは必ず暴力を生む」と書いていたことがある(『欲望の現象学』)。

差異は自然的なものであり、避けられない人間の属性であるのに、それを消し去ろうとすること自体が、無理で無謀なこころみであり、したがって暴力をもってしか実現できないからだ、と理解できるだろう。

だが、同一性に向かおうとする欲望の起源は説明されていない。すでに誰かが指摘しているかも知れないが、この欲望は「死への欲望(タナトス)」としてとらえるべきではないか。またエーリッヒ.フロムもかってファシズムを「死体愛好(ネクロフィリア)」と関連づけていたが、重なるところがある。

ナチスが権力を握っていた当時のベルリンの光景を写真で見たことがある。見ようによってはポストモダン的な、偉容を誇る建築群と道路だけが写っているもので、人間は一人もいない。写真に色濃く漂っているのは死の雰囲気であった。

もし私たちがこの写真になんらかの美を感じるとすれば、それは死と暴力によって人間がいなくなった世界が私たちを誘惑するからだろう。この美(死)への欲望が誰の中にも存在するとすれば、ファシズムの誘惑はありふれたものになる。

このことでもう一つ想起するのは、かっての連合赤軍の同志殺しである。そこで問題になっていたのは構成員の革命兵士への同一化である。だがそれは暴力を引き寄せ、最終的には殺人が「敗北死」と形容されるにいたる。

殺人は連鎖反応を起こし、あるいは最終的に首謀者であった森と永田しか残らなかった可能性さえある(皆殺し)。死者たちの上で「革命化」という死の言葉だけが乱舞し、隊員たちはそれに翻弄された。この痛ましい事件は、森や永田の個人的な資質によるところが大きいことは疑えない。

しかし、差異を憎み、同一化を実現しようとする欲望に歯止めが利かなくなると、かならず暴力と死が忍び寄ってくることがこの悲劇の核心にあったと考えるべきだろう。革命物語が転倒し、死神となって人を支配したと言い換えることもできる。

重要なことは、同一化への欲望(タナトス)が誰の中にも存在するとすれば、それがマルクス主義であろうと、ファシズムであろうと、天皇主義右翼であろうと、宗教カルトであろうと、同一化への歯止めがかかっていない限り、死を招き寄せるリスクは同じだということである。

だからこそ私たちは、最初から、同一化の危険を避ける方法をあらかじめ活動スタイルの中に織り込んでおく必要がある。それが党派を組まず、盟約を結ばず、プロジェクトごとに互いに匿名の単独者としてたたかい、課題が果たされたら解散するということなのだ。

近代の歴史で、「大きな物語」への同一性を強要し、結果的に大量殺戮をもたらしたのは、ファシズムとコミュニズムである。

もしファシズムが、誰の内部にも潜む同一性への誘惑を基盤にしているとすれば、そしてそれが言葉ではなく、情動であるとすれば、ファシズムに対抗するには、論理だけでなく、情動の世界にも切り込むものではなくてはならないだろう

言葉を理性に置き換えれば、まず「理性は情動に勝つことはできない」という苦い認識に立つ必要がある。(これは、近代の議会制民主主義体制は、個人=市民の合理的で理性的な判断を前提にしたものだが、これは擬制であり、タテマエに過ぎないという認識を含んでいる)。

もし理性や言葉が「死の衝動」の前には無力であるとすれば、私たちの手元に残されているものは何か。それは、たとえ根源では「死の衝動」と繋がっているとしても、他の衝動しかないだろう。

では他の衝動とは何か。私たちはそれは「義憤(righteous indignation, outrage)」や「同情(compassion)」や「悲哀(grief)」だと考える。いかにも素朴で単純なものなものに違いない。

しかし、これらの情動は「同一化に向う死の衝動」と同じ生の基盤の上で、それと拮抗する力を持っている。もっと単純な別の言葉を使えば「怒りと悲しみ」の情動ということになるだろう。

同情と悲しみが最後は怒りに私たちを導くことになるすれば、これらの情動の中でより強い情動は、「義憤」ということになるだろう。では義憤はなにが侵害された時に生まれるのか。

それは、社会的、政治的、歴史的に(他者から)承認されているとみなされる自己についての意識であり、「誇り(pride)」という言葉で表現されているものだ。

この自己意識、誇りが、不当に無視、軽視、蹂躙、否定されたときに義憤=怒りが生まれる。(したがって、ここでは何が不当かという正義論が問題になるが、当面の議論からはすこし逸れるので今は言及しない)

ファシズムもまた人びとの義憤に訴える運動ではないのかという疑問が出されるかも知れない。たとえばナチスは、第一次大戦戦勝国による圧迫に義憤を感じていたドイツ人たちに「ドイツを取り戻す」と訴えたのだから。

確かにナチスは義憤(別の言葉ではルサンチマン)を煽った。しかし彼らは権力=力によってこそ事態は打開できるという信仰のもとで、他者への「同情」も、戦争の悲劇に対する「悲哀」も弱者の感情として切り捨てていたのだ。また義憤がルサンチマンにとどまるように、ドイツの戦争責任を隠蔽していた。

だから私たちは、義憤が、歴史の修正や隠蔽によって、意図的に煽られ、たんなるルサンチマン(奴らは敵だ、敵を殲滅せよ)として発動されることがあることにも充分気をつけなければならないだろう。ナチスが煽ったルサンチマンはスケープゴートとしてのユダヤ人の大量殺戮(ホロコースト)へドイツ人を導いた。

ポイントは、戦略的には、ファシズムと闘うには彼らと同じ情動の平面でたたかう必要があるということである。

一つ補足しておきたい。先に義憤を生み出す前提にあるのが「社会的、政治的、歴史的に(他者から)承認されているとみなされる自己についての意識」=「誇り(pride)」だとしたが、この誇りと固く結びついているものとして「自由であること」をあげておかなければならない。

自由が情動といえるかどうか今明確にできないけれども、しばしば「自由である感覚」と呼ばれることがあるように、たんに理念にとどまらず情動を含むものであることは確かだ。

誇りの感情は、その主体が自由でなければ、十全に感じることもできないだろう。その限りで自由であることは、誇りの感情を構成している。

さて現在、私たちが目にしているのは、ナショナリズムの台頭と、それと平行しながら幾つかファシズムの徴候があらわれていることである。

ナショナリズムは日本経済の国際競争力の低下(とりわけアジア経済の猛追)にともなう長引く不況の中で、そのダメージを補償しようとする動きとして強まりつつある。それは自民党の右派だけでなく、野党(規制改革を掲げる民主、みんな、維新などの一部)も含んだ動きであり、多くの人びとのフラストレーションに支えられている。

そこでめざされているのは経済とともに政治的にも強い国家、戦争にも対応できる国家であり、さしあたってはその障害となる現行憲法の改正である。しかし、現在日本が置かれている国際政治の力学を考えたとき、このナショナリズムは致命的なアキレス腱を持っている。いうまでもなくそれはアメリカとの関係である。

本来ナショナリズムがめざすのは、さまざまな国家との同盟関係はあるとしても、国家の自立である。しかし、現在の国際関係の中ではたしてアメリカからの自立(あるいは対等な同盟関係)は可能か?

アメリカにとって日本の政治的自立は、日本が自力でアジア市場を(さらには世界史上のそれ以外の地域も)支配していこうとする「小帝国」に変貌することを意味している。たとえ形式的な自立は認めても、その本音はどこまでも日本を軍事力、とりわけ核兵器を欠いた「半国家」にとどめておくことにあるだろう。

日本の帝国化は、現在アメリカが進めている中国、ロシアとのバランスを崩しかねない大きな不安定要素となる。またアメリカにとって日本の核武装は、対アジア戦略上も、自国の安全保障上も許容できないだろう。

したがって現在強まりつつあるナショナリズムは大きな障害を抱えていると言わざるをえず、途中で対米関係をめぐって二派に分裂していく可能性がある。自民党を中心とする主流派は「いずれは対等な同盟関係を実現する」と約束する漸進主義をとり、反主流派は明確に「対米従属からの脱却」を掲げていく。

私たちは日本の「帝国化」に抵抗しなければならない。なぜなら局地戦であれ、ロボット兵器による無人攻撃がメインになるのであれ、帝国化は戦争を招き寄せるからである。

ただナショナリズムを乗り越えるべきもの(さらには悪)と断定するのは避けるべきだ。そこには正当な人びとの義憤が含まれているからである。人びとの義憤を生み出している沖縄を中心に全土に散在する軍事基地システム、自衛隊のコントロール、TPP参加への強制や原発政策への介入にみられる対米従属状態は解消されなければならない。

その意味で私たちは、対米従属路線からの決別をめざすであろう急進的ナショナリズム派とは肩をならべることになるだろう。しかし、このナショナリズムが排外主義をともないファシズムに傾斜していくときには、抵抗し、批判し、とどめるためにたたかう。

ナショナリズムはやっかいなものである。それは一方では土地と言語を共有する同胞である隣人への同情(共感)を基盤とする自然な感情であり、他方ではルサンチマンが強まってくると排外主義やファシズムに転化してしまう。そしてそれは戦争への土壌となる。

どこまでが自然で正当なナショナリズムであり、どこからが不当で戦争をはらむ危険なナショナリズムになるのか境界が明確にあるわけではない。だから単純に排撃することでは済まない。それは逃走である。ナショナリズムは本来的に両義性をもつものとして、その外部ではなく、どこまでもその内部でたたかうしかない。それは右の最良の人たちとも一致する争点でともにたたかうことを意味している。

次にファシズムとは何かを検討しなければならない。ファシズムは、一言でいうとすれば「ナショナリズムと土壌を共有しながら、やがてはその退廃形態として、共同体全体を死に誘う社会運動」ということになるだろう。

その徴表として、指導者の独裁、エリートと大衆の二元的統治(階級格差の擬制的是正、中間団体の破壊を含む)、劇場政治、死の文化化(日常化)などをあげることができる。

ファシズムへの衝動が顕在化してくるのは、共同体の亀裂が大きくなり、かつ国際的に当該国家が孤立していく時だ。共同体の亀裂は、中間層の没落が進み、今の言葉をつかえば社会が「1%対99%」に分岐していくように見える状況である。

国際的な孤立は、国家ごとにケースバイケースであり、さまざまな要因がありうるが、基本的に他の国家から「不当に包囲され、圧迫されている」という国民感情が醸成されるような状況である。

現在わが国は、共同体の大きな亀裂や国際的孤立という条件を備えつつあるだろうか。もちろんこの二つの条件は全面開花しているわけではない。しかし、然り、備えつつあると考える。

たとえば橋下氏がリードする「維新の会」や在特会のレイシズム運動にその萌芽を見ることができるだろう。あくまで芽であってファシズム運動とまだ断定はできないし、今後変化して行く可能性があるとしても。

「維新の会」は自民党のナショナリズムと同じ土俵に立ちながらも、橋下氏のカリスマ性、決断主義、劇場的パフォーマンス、戦後統治システムの精算などで際立っており、ファシズム的徴表をもっている。

また在特別会は、在日韓国人、朝鮮人にたいするあからさまなレイシズム、排外主義をふりまき、アジアに対する日本の帝国化を掲げている。これら二つの流れはあきらかにこれまでの政治運動とは異なったファシズム的な質を持っている。

この二者に限らず、今後あらたなファシズム的運動が登場してくる可能性がある。問題は、ファシズムはその芽のうちに刈り取る必要があるということだ。あらゆる方法で、多くの人びとと連携しながら対抗し、その流れをせき止め、変質させ、衰退へ追い込まなければならない。1930-40年代の経験を学び、あたらしい知恵と工夫で「反ファシズム統一戦線」をつくりあげていくべきだ。

もう一つ、私たちすべてが避けて通れない問題として原発がある。2011年3月11日の大地震と津波によって冷却不能におちいった福島第一原発で爆発事故が起った。コントロール不能なメルトダウン、さらにメルトスルーが起こり、膨大な放射性物質が大気と海に放出された。

事故直後は、首都圏全体の避難(2,000万人)さえ真剣に検討された。そして2年たった現在も再臨界の危機を抱えたまま事故終息、廃炉の見込みもたたず、放射性物質の飛散と地下水と海への流失もとまっていない。

この原発事故は何を私たちに問いかけたのか。原発という機械装置はいったんシリアスな事故がおこると、現時点のどのような技術をもってしてもその暴走を止めることができず、拡散した人口放射性物質は人間と自然に取り返しがつかないほどの打撃と損害を与えるということ。蓄積しつづけている使用済み核廃棄物の処理も、再処理工場の頓挫を含め、まだめどがついていないことは言うまでもない

「人間の社会は原発と共存できない」ということこそ福島の事故から私たちが学んだことであり、どのような角度から判断しても、そしてどのような合理化のための詭弁を弄そうともこの教訓を覆すことはできない。

だから「すべての原発をただちに廃炉に!」が私たちの課題でなくてはならない。原発問題はイデオロギーの問題ではないし、またそうしてはならない。また反原発派と維持推進派のあいでで中立的立場もありえない。いったん原発事故が起これば放射性物質はすべての人の上に降り注ぎ、広大な周辺地域を無人で放置せざるをえず、したがって社会全体が危機に陥るのだ。

原発問題は、政治の手前にあり、社会の存在条件、未来と深くかかわっている。原発維持派が自民党や国家官僚、電力業界などの原子力村で構成され、さらには背後にアメリカが存在しているとしても、それは本質的には政治的選択の問題ではなく、海外を含め、すべての人びとがいやおうなく巻き込まれる社会の生存にかかわる問題である。このことは、原子力村の背後に「日本の核武装能力の維持」を狙っているナショナリスト右派の思惑が存在しているとしても変わらない。(未完)

8.2013