昨年、山本太郎氏がれいわ新選組を一人で旗揚げしてから、立憲民主党(以下立憲)の支持者の一部がツイッター上でれいわ新選組(以下れいわ)を叩き始めた。れいわが掲げている政策の多くは立憲のそれと重なっているので、本来は、れいわ旗揚げ時から、ともにアベファシスト政権を倒すための野党の一員として歓迎していてもおかしくない。れいわから見た立憲の位置も基本的に同じであろう。実際7月の参院選で山本太郎氏は、仙台の石垣のりこ氏や大阪の亀石倫子氏など立憲候補者の応援に入っている。
では、なぜ叩くのか、私にはその動機が判然としなかった。
6月の参院選後、立憲支持者のれいわ叩きは激しさを増していった。しかも立憲支持者として知られてきた学者や活動家たちの中には、れいわの政策(たとえば消費税減税、大胆な財政出動など)を正面から批判するのではなく、「野党の票を食うだけで、自公政権を手助けするものだ」と論難し、ほとんど「れいわ=敵」認定のレベルまでいたったのである。これはかって民進党や民主党などが共産党を批判していたのと同じ論難の仕方であり、まともな批判ではないのは言うまでもない。これ以降、政策論争もあらばこそ、一刻も早く潰れてほしいと言わんばかりのケチつけや煽りが目立ち、これら批判者の呆れるばかりの劣化ぶりが顕著になった。
ところが、それでもれいわ批判は一部の立憲支持者だけだろうと思っていたところ、立憲委員長の枝野氏自身が、消費税減税や反緊縮路線をめぐって、名指しはしなかったものの公の場で公然とれいわ批判をおこなうにいたった。
こうなると、れいわ批判は一部支持者の暴走ではなく、立憲の党としてのスタンスから派生していると考えざるをえない。ではその理由、動機はどこにあるのか。上でも述べたように私の中でなかなか判然としなかったが、ここにきて、一つの理由が浮かんできた。
それは、立憲とれいわが共にポピュリズム的出自を持つがゆえに、ポピュリズムをめぐってヘゲモニー争いをせざるを得ないからではないかというものである。立憲も、希望の党による民主党解体策動のさなか、枝野氏が単独で立党を呼びかけ、それに少数の議員が応じるという劇的な出発をし、それを民主党解体に危機感を抱いていた多くの反自公のリベラル派民衆が熱烈に歓迎し、党勢を一挙に拡大したという経過がある。つまり、立憲の党としての成長はこれらの国民の熱い支持なしにはありえなかったのであり、ポピュリズムはこの党の支持基盤の一角を構成していると言える。
ところが昨年山本太郎氏のれいわが旗揚げし、消費税廃止、全国一律最賃1,500円、デフレ終息まで一律ミニベーシックインカム、原発即時禁止、奨学金徳政令など、立憲よりもよりラディカルな左のスタンスをとり、広範な民衆の支持を集め始めたのである。参院選でれいわは全国比例で230万票を獲得した。れいわは結党時山本氏一人であり、組織も同僚議員もなく、文字通り、民衆の支持だけを拠り所にする党であり、純粋な左派ポピュリズム政党と呼んでもいいだろう。
こうなると、れいわにお株の一部を奪われたかたちになる立憲は自らの立ち位置があいまいになり、このあいまいさを避けるためには早晩決断を迫られることになる。リベラル派民衆の左派的部分がれいわに引き寄せられているのは明らかであり、党内に連合や改憲派などの「中道派」を抱えたままの立憲は(枝野氏は立憲は中道保守である名乗っている)、れいわと同様に左に舵を切り、共に左派ポピュリズムを牽引する道を選択するのか、それともれいわを「非現実的」「カルト的」などと批判し、左派ポピュリズムに距離を置く(さらには敵視する)道を選択するのかである。
れいわは立憲の立ち位置を判断するリトマス試験紙、あるいは今後の党の成り行きを決める試金石なのだ。だからこそ立憲の中で、左派と中道派の連合を維持し、さらには国民との合同(つまりは野党連合構想)を望む者にとってれいわは危険な存在であり、野党共闘から外すことはもちろん、できれば潰したい対象になる。言い換えれば、彼らにとってれいわは立憲の基盤を崩す恐怖の対象なのだ。これこそが、一部の支持者にとどまらない、党としての立憲のれいわ叩きの動機であり、理由だろう。この動機は、彼らのパターナリズムによって支えられている。いくらポピュリズムは大事だとか、ボトムアップが必要だとか口先で言おうと、民衆が党の枠をはみ出て闘うことは彼らにとってご法度なのだ。まして、どれだけ実行できるかまだ疑問符がつくとしても、れいわは「党ならざる党」を方向として目指そうとしているのだから、彼らの恐怖は増すことになる。
だが、現在のれいわの勢いがただ山本太郎人気によるものではなく、その政策の民衆に対する衝迫力や「党ならざる党」という新たな政治概念によるものであるとすれば、立憲がれいわとの政策論争から逃亡し、アベファシスト政権を倒すための友党としてれいわとの共同作業をおこなうことを放棄すれば、民衆から見放される結果が待っているのは明らかである。
彼らはどちらの道を選択するのだろうか。
1.17.20