5年前、2014年の2月に書いたものです。現在では多少考え方が変わったところがありますが、考え方の基本的枠組みは同じです。現在を考える上で参考にしていただけるところもあるかと思い、再録しておきます。(2019年4月)
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昨2013年にノード運動のウェブサイトを立ち上げてから、ほぼ半年が過ぎました。この間、原発、レイシズム、秘密保護法、東京都知事選など、現実の課題に触発されながら、ノード運動の基本的な考え方を再考してきました。その中で、なお検討すべき問題(難問)が幾つか残っています。それらをここで一度整理すべく、A君と対話してみました。
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A:サイトと立ち上げてからの反応はどうですか?
いやー、残念ながらほとんどゼロに近い(笑)
A:理由はなんだと?
もちろんまだ知られてないという状態があるわけだけれど、継続して発言の場所にしているツイッターでフォローしていただいている皆さんは、一度はサイトを覗いていただいていると思うし、それでも反応がゼロに近いのは、他に理由があると考えるべきだと思う。やはりノード運動それ自身が分かりにくい、関わりにくいことが大きいのではないか。
A:どこが分かりにくく、関わりにくいと?
党派でもなく、組織でもなく、個人としてのたたかいを呼びかけているわけだけれど、すでに何らかの形で社会運動に関わっている人たちからすれば「なるほど、そうだよね。分かるところある。じゃこれからも頑張るし、ノード運動さんも頑張ってね」で終わってしまうところがあるんじゃないか。
A:なるほど
徒党を組まないという立場から言えば、基本、それでいいわけで(笑)。
A:でもそれだけでは、ノードたちのたたかいが見えないでしょう?
確かにそれはそうだね。でも目的はあくまで、ノード的なスタンスを持つ人たちが、さまざまな領域で自律してたたかっていくことであり、このサイトはそのための材料を提供するだけなので、本来は、見えなくてもいいわけ。とはいっても、ノード的なスタンスをとる人たちが増えていくことは必要だから、いずれは、何らかのかたちで「交流」し、その結果、運動がある程度「可視化」されていけばいいとは思っている。
A:あまり急いでないわけですね
そう。確かにいま、戦後秩序をほとんどまるごとひっくり返そうとする安倍内閣の右傾化が加速しているし、原発の再稼働や沖縄の基地問題、レイシズムなど直面する課題は多く、人びとのたたかいの陣形を整えることは急ぐ必要はあると思う。けれども、ノード運動が提起しているたたかい方は、これまでの社会運動とかなり違っているし(というか、それを変えようとしている)、理解が広がるにはそれなりの時間がかかる。それに、たたかいの主体はあくまで個人であり、目的は自分自身を変えていくことだから、なにか象徴的なたたかいに集団で参画したり、組織したり、それを契機にノード運動が大きく広がっていくというようなこともない。
A:そのあたりが「関わりにくい」(俗な言葉では絡みにくい)ということと重なりますね
だと思う。たとえば、あるたたかいで遭遇した二人が、たまたま何かの話の中で「そういえば、私の場合ここにいるのは、ノードとしてのたたかいというイメージなんですよ」「ノードって、あの単独の結節点という?」「そう。そのイメージでたたかうべきだという主張があって」「あ、知ってますよ。実は私もノード運動のサイト見てるんですよ」と会話を交わすようなことがあれば、そこにノードが二人いることになる。それが理想(笑)
A:なるほど、ちょっと理想主義が過ぎてませんか?
たたかいは理想主義でなくちゃ(笑)
A:ところで、この間のたたかいの中でいくつかの課題が頭をもたげてきましたよね。それらは『ノード運動のためのノート』でも触れられていますが。それについて少し話してくれませんか?
ランダムになるけれど、最初に来るのはやはり「安倍内閣はファシズム政権か?」という問題。すでに「ファシズムだ」と規定する人たちも出てきていて、それに対し「いや、まだファシズムとは言えない」という反論は私の知る限り(といってもツイッター界隈が中心だが)あまり出てきていない。せいぜい笠井潔さんが「修辞としてファシズムという言葉を使いすぎるな」と発言していたくらいかな。
A:ご自身はどうなんですか?
まだ「ファシズム」と正面きって規定することにためらいがある。もちろん「自民党憲法改正案」に表現されている国家主義を公然と掲げ、国会での多数を背景に力づくで、「特定秘密保護法」や「国家安全保障会議法」など、現行憲法を無視した、人権と自由を抑圧する法案をつぎつぎ通してきたやり口は、ファシズムと近似しているし、プレファシズム政権と言ってもいいと思う。しかし、ファシズムと断定することは、たたかう側にとってはその打倒しか道がなくなるということを意味する。この場合打倒とは、対抗権力による打倒であり、選挙でのたたかいは想定しにくい。というのは、一般にファシズムとは、あらかじめ人びとから反政府活動の権利を奪った全体主義的な独裁体制と理解されているからだ。私たちが現在そういう状態に陥っているかと言えばそうではない。戦後秩序(安倍さんたちは戦後レジームと呼ぶ)を精算し、戦前の国家と同様の条件を作り出そうとしている安倍内閣は、たしかにファシズム的な政治体制を望んではいるだろうが、もちろんそれに成功したわけではない。
A:うーん、そうすると言葉の定義の問題になりませんか? 国家主義にもとづく独裁体制の完成をファシズムと呼ぶのか、それとも完成していなくても、そういう志向を持った政権のことをファシズムと呼ぶのか、という
なるほど、未完成であってもファシズムへの傾向があればファシズムと呼んでもいいじゃないかという立場もあるということだね。考えてみれば、欧米のネオナチ運動も「ファシズム」と形容されているし。
A:もし安倍内閣がこれまでの自民党政権と違って、正面から戦後秩序を否定し、立憲主義を否定する「憲法改正」に進みつつあるということであれば、この内閣をファシズムと規定してもいいんじゃないかと思うんです
確かに一理ある。それに今振り返れば、昨年麻生さんが「ナチスにならって、国民がわからないやりかたでこっそり憲法改正までもっていけばいい」と発言したことの意味が解けてくるね。要は、独裁体制にもっていきたいわけだ。けれども安倍内閣をファシズムと規定することに同意しても(あまりこだわるわけじゃないけれど、安倍グループあるいは一派が主導している動きだとすると、ファシストと言ったほうがより実態にあうと思う)、先にも触れたけれど、正面からファシズムと規定したら、対抗権力をどう形成していくかということを含め、どういうたたかい方が要求されるかを検討する必要があると思う。そこが抜けていると、修辞としてのファシズムになってしまう。今、安倍内閣をファシズムと規定する人たちはこの問題は考えているんだろうか?
A:たたかい方って具体的にはどんなことですか?
つまりファシズム(運動)は、タテマエとしては法を振りかざしながらも、反対派に対しては最後は私的、公的暴力で物理的に潰していくという体制だから、この暴力に対してどう対抗していくのかが問題になる。ファシズム体制が完成する前であれば、もちろん選挙も重要なたたかいの場になるけれど、選挙という形式民主主義と、彼らの暴力に対峙するという直接民主主義(人びとの対抗権力が生成する場)が併存するというか、交互にたたかいの場になっていくと思う。だから、合法的であることが絶対条件であったようなこれまで通りのたたかい方では不十分になるだろう。ここで直接民主主義というのは、たんに合法的なたたかいを前提にした「参加型民主主義」とは違っている。
A:「人びとの対抗権力が生成される場」がいまいちイメージが湧かないんですが..
これが対抗権力だという言えるようなたたかいも組織も、まだこの国でははっきりした形では生まれていないからね。組織のイメージとしていえば、アメリカ、ヨーロッパで現れているブラックブロック(Black Block)の活動だろうか。彼らは、別に革命組織ではないし、一時的に編成される戦闘的デモ部隊に過ぎない。しかし、権力に明確に対峙し、対抗しようとする人びとの意思を体現している点で、デモの次元を一歩超え、対抗権力を示唆するものだ。ブラックブロックそのものではないが、現在日本でレイシストに対抗しているカウンター部隊は、精神において、近い位置にあるかも知れない。たたかいそのものについて言えば、権力を排除して人びとが自らコントロールする拠点的空間が生まれるかどうかがポイントになると思う。
A:両方ともまだ日本でははっきり現れていないので、はたして今後生まれてくるのかどうか何とも言えないなー。でもかっての全共闘などの学生運動では大学自体が拠点化していたそうですから、歴史的に経験がないわけじゃないですね。
そう。68-70年に全国的に拡大したかっての学生運動が、数年間持続できたのは、大学が「拠点」(空間)として機能していたことが大きい。たたかいが生きのびるためには、かならず一定の拠点空間が必要になる。これはメキシコのような農村におけるたたかいであれ、ヨーロッパの都市におけるたたかいであれ、共通している。だが、現在の日本で、そんな空間がどこから生まれるのかと自問してみても、なかなかイメージが出てこない。せいぜいデモの延長の、合法非合法が混淆した街頭戦くらいかな。その後が描けない。
A: ニューヨークのオキュパイ運動でも、公園を拠点にして展開していこうとして苦闘していますね
そうみたいだ。現在のアメリカはほぼ「警察国家」と呼ぶべき状況になっていて、たたかいは日本より厳しい条件の下にある。もちろんそれぞれの国でたたかいの歴史や現状が異なっているわけだから、拠点空間といっても、さまざまな形がありえるし、日本では日本の現実にそった空間が必要だけれど、まだそのイメージが掴めない。とはいっても、現時点でそうであるとしても、人びとのたたかい中から、必ず生み出されてくると思う。現在は徹底した管理体制に置かれている大学がどこかで変貌するのか、たたかう人びとがすでに集合的に集まり、生活しはじめている都市の一定の領域なのか、捨てられ、新たに人びとに占拠されたビル群や老朽マンションなのか、はたまたどこかの農村の限界集落なのか、今は誰にも分からないとしても。
A:漠然としていますね
確かに。でもこれだけは言えると思う。これからのたたかいの主戦場は「空間」をめぐるものになると。こちら側が作り出す空間を、権力は必ず潰しにかかってくる。そこで持ちこたえるためにたたかうことがまず優先されるけれど、かりに敗北しても、ふたたび、三たび、新しい空間を作り出して対抗していかなければならないだろう。散発的、一時的に生まれる「抵抗線」ももちろん大事だけれど、それが空間と結びついていかなければ敗北しつづけることになる。たとえ潰されても、敗北したところから「抵抗線」を断続的であれ、作り出していくことでしか、闘いはないという意見もあるかも知れないが。
A:この問題はまだまだ考えるべきことが多いですが、ここでちょっとファシズム問題にもどると、かりにプレファシズム権力にいったん人びとが敗北し、暴力で自由が奪われたしまったからと言っても「たたかいの終わり」じゃないと思いますが..
それはその通りだ。少し言い方が誤解を生んだかも知れないけれど、ファシズムが勝利したからといって、決してそれで「終わり」というわけじゃない。実際、戦前のドイツでもイタリアでも、ファシズム下でのたたかいは存在したわけだし(残念ながら日本では記録されていないが)。ただその大半が潰されてしまったことを考えると、著しく困難な、ほとんど絶望的なたたかいになるのは否定できない。当然、たたかいは非合法にならざるをえない。実際にはファシズム権力は内部からではなく、連合軍の軍事力によって外から倒されたわけだ。だからこそ、プレの段階で、ファシズムは何としても潰さなければならないと思う。その意味では、当面、安倍内閣にストップをかけ、倒すことが最優先課題とすべきだ。ファシズム規定で、もう一つ警戒しておくべきことがある。
A:なんですか?
ファシズム勢力を観念的にとらえてしまう傾向だ。ファシズムと規定したとたんに、敵は一枚岩の完全な存在のように見えてしまう危険性がある。実際には、今の自民党だって、大資本だって、すべてが安倍支持ではないし、そのやり方にアンチの人たちも存在する。さらに、人びととの対抗関係の推移や国際的な圧力で、安倍一派が内部分解を起こす可能性だって存在する。権力は決して固定的なものではなく、常に動き、再編成され、変動していくものだという認識を持っていないと、たたかいの巾を狭めてしまうことになる。ドゥルーズ/ガタリがいう「権力もアレンジメントである」という視点だね。権力の分裂は利用し、変動にはできる範囲で介入していくことも必要だ。
A:ちなみに、同じことは「新自由主義」に対する批判にも言えるかも知れませんね
「新自由主義だ!」とラベリングすることで何か言っていることになると思い込んでいる人たちが多いことに驚く。ツイッターでも少しコメントしたけれど、ラベリングしている人たちの多くは「新自由主義」とはいったい何をさすのかさえ理解していないように思える。それに、もともとこの概念は外国産で、国内でどれだけ練られたのか疑問も残る。輸入概念では敵も明確にできないし、だから有効なたたかいを組織できないだろう。敵のイデオロギーを名指すには便利な言葉だろうけれど。
A:ファシズムと関連して、ほかに何か課題はありますか?
課題というか、考えるべきことが一つある。これまでこのサイトでも触れたと思うし、ツイッターでも何度かコメントしたことだけれど、「なぜここで安倍内閣が生まれたのか?」という問題がある。結論を先にいえば、やはり3.11の大震災と福島原発事故によって、日本が内戦状態に入り、権力と資本の側がそれに対応するべく用意したのが安倍ファシスト内閣ではないかと考えるべきだと思う。
A:内戦ですか。でも、安倍内閣がファシズム志向で弾圧がはじまっているとしても、国会もまだいちおう機能しているし、権力と人びとの正面からの対決もまだ起こっていないと思うので実感しにくいですね。活動家の多くもそうじゃないかと..
確かにそれはその通りだけれど、内戦といっても必ずしも街頭というか、外で起こっていると言ってるわけじゃない。まだピッタリくる表現を見つけられないけれど、内戦は人びとのこころから始まっていると思う。3.11は、現在から未来へと順当に流れていく時間、そしてそれと結びついた「イノベーションを繰り返しながら永遠につづく資本主義社会」に大きな疑問符を突きつけた。原発事故直後の数週間、ほぼ無政府状態であったことを私たちは経験し(第二の敗戦体験と呼んだ人もいた)、昨日と同じように今日も続くと思われていた日常がいったんカッコに入れられ、多くの人が「もはやこれまで同じように前には進めない」という思いにとらわれはじめたと思う。原発事故を契機に生まれたその廃絶に向けたたたかいは、人びとのこの思いの象徴的な表現だろう。もちろん逆の反動的なベクトルもあるわけだが。
A:もう少し内戦の意味を説明してくれませんか?
3.11の後、これまで自分たちを縛ってきた社会的、政治的な規範から距離をとり、境界線を引き、ほんとに自分が納得できる新しい生き方を模索する人びとが増えてきたということだ。だが、それは冒険であり、飛躍だから、不安と背中合わせになっている。2012年、13年の国政選挙で自民党が圧倒的な勝ちを納めたわけだが、これは人びとがその不安から、擬似的な「安定」を求めようとした結果だと思う。だが、同時に、新しい冒険に飛び込み、踏み出して行く人たちも確実に増えている。反原発からレイシズムとのたたかい、さらに秘密保護法とのたたかい、そして安倍ファシスト内閣を倒すたたかいに連続して参加していく人たちが出てきている。注目すべきなのは、これらの人びとの大半が無党派だということだ。(続く)
2019年4月