さまざなな概念の引用も必ずしも親切ではなく、二度読んでもまだ未消化なところが残るが、それでも私たちにとって極めて刺激的な著作である。これは現在進行中の「世界民衆闘争」を著者の視点である「アナキスト的原理」から読み解き、その未来を展望しようとした試みである。
何よりも驚いたのは、この著作で紹介されている社会運動と著者のその分析や展望とが、私たちが構想しているこれからの社会運動のあり方(断片的であるが『ノード運動のために』で述べているので参照いただきたい)と重なり、共振するところが驚くほど多かったことである。正直にいえば、あまりに多いのでこの重なりが偶然とは思えないくらいである。この著作は2009年に発表されているが、もちろん私たちはこれまで未読であった。
重なる点を幾つかあげてみよう。
・たたかいの新しいエートスは他者への愛と尊敬である
・たたかいは一回的な賭け(出来事)であり、予定調和的な結末は存在しない
・たたかいは崩壊の危機をはらむ脆いものであるが、同時にそれが強さとなる
・革命とは、結果ではなく、過程であり、未来のための記念碑となる
・民衆のたたかいは、物理的帰結だけでなく、集合的な想像力の世界だ
・たたかいを継続しサバイバルしていく方法は芸術(アート)である
・たたかいの固定化、同一化を避け、異種混合と差異化を恐れないこと
・世界の意味、人類の意志は不可知であり、つど発見していくしかない
・今や世界の民衆のたたかいは「共通なるもの」をめぐるものになっている
・グローバル資本主義内部に新しい人間関係の堡塁を生み出すこと
・権力は、人びとの絆によって包摂し、融解させていくべきもの
・たたかいの中で人びとの情動が変化し、変身する(複数の生を生きること)
私たちは1980年代から現在までの日本のみならず世界の民衆闘争を充分にフォローできているわけではない。主体的に参加したたたかいも少ない。60-70年代の短い政治社会運動の経験、反省と、それ以降の知りえた範囲の社会運動を追うことで得た直感から、これからの社会運動を構想しているに過ぎない。にもかかわらず、この著作での高祖氏の分析、展望と私たちの構想の多くの重なりあいはどこから来ているのだろうか。
略歴では高祖氏は1955年生まれとあるが、おそらくは60-70年代のいわゆる新左翼運動(これは日本にとどまらず、フランス5月革命を含む世界的な運動であり、著者によって「1968年革命」と名付けられている)の挫折、敗北を起点に、その後に展開されてきた世界の社会運動に密着しながら、そこに新しい発想とスタイルを発見していこうとされてきたからではないか。そうだとすれば、氏の視点は私たちの問題意識とほぼ共通していることになる。
それは端的にいえば、新左翼時代までの政治社会運動で支配的であったマルクス主義と異なる考え方をどう掴んでいくか、つまり生まれてくる社会運動にはらまれている非マルクス主義的な新しい発想とスタイルをどう読み出していくかであり、そして著者にとってそれは「新しいアナキズム」と名付けるべきものであったのだ。
「世界民衆の言葉としてのアナキスト的基本原理、その内容は一体何だろう?それはどこまでもナイーブ、かつどこまでも単純明瞭な故に、常に冷笑家たちの嘲笑を買ってきた。だが自分が生きる社会あるいは組織化するグループの生死を賭けた視点から見れば、誰しも重視せざるをえない諸項である。みんな身体的にはそれを知っている。それらは以下の通りである。-万人の平等、個々人の意志と欲望の重視、あらゆる強制手段の廃棄、搾取/抑圧に対する闘争権。さらにより概念的/方法的な次元においては、自律、自主運動、自己組織化、相互扶助、直接民主主義などが浮上する」(同書33P)
ただ著者にとって「新しいアナキズム」とは、マルクス主義と併存するイデオロギーとしてのアナキズムではない。つまりかって存在した近代アナキズムの復権ではない。現在生まれ、日々たたかわれている「世界民衆闘争」がアナキズム的原理に基づいているからなのだ。いや著者とともに言えば、アナキズムとはもともとイズムとして同定されるものではなく、社会運動が生まれる都度、その運動内部に生まれる民衆の自然的な情動、モラル、希望として存在してきたし、これからも存在し続けるものである。だからあえて「アナキスズム」と命名しなくてもいいとも言える。およそ社会運動は特定のイズムが実現されるための手段ではなく、人びとの生存を賭けた一回的なたたかいであり、それ自身が目的だからだ。
もう一つの理由は、著者も私たちもポストマルクス主義の時代にあってドゥルーズ=ガタリの哲学を重要な導きの糸としていることだろう。ただ高祖氏は、彼ら以外の思想家、運動家たちの多くの著作を読み込んでおり、参照項は豊富であり、ドゥルーズ=ガタリの哲学の比重は異なるであろうことは付言しておきたい。
一点だけ、著者の現下の結論部分だけにこれまで述べたことといささか背反することになるかも知れないが指摘しておく。「たたかいが『共通なるもの』に収斂しつつあり、それはとりもなさず『地球』のことであり、ドゥルーズ=ガタリの『器官なき身体』だ」という指摘だが、説明不足で飛躍があり、判断は留保しておきたい。
最後に、「たたかいの持続とサバイバルの方法は芸術である」という氏の信念に沿うかように、本書の文体が民衆への愛に満ちた詩的なものであり、読むことの愉悦を味合えることを指摘しておく。たたかいに寄り添い、同走しながらストリート上で考える氏のスタンスゆえに生み出された文体だろう。私たちも、これからのたたかいの宣言は詩になるであろうと考えており、本書は紛れも無くそのような宣言の一つである。
ともかくこの著作は示唆に富んでおり、私たちは今後も折りに触れ参照することになるだろう。皆さんにも一読をすすめたい。
2016