昨年2012年の11月にネットで名無し委員会名義で『いまここにある蜂起』がアップされ、今年に入って7月にその続編もアップされている。以下のサイトに全文が掲載されている。

格差拡大、ブラック企業の増大、原発事故、レイシズムの台頭など日本の現実が日々悪化しつつあるにもかかわらず、これまでの既存の政治勢力が無力であることに苛立つ若い世代によるたたかいの宣言である。(以下『いまここにある蜂起』を便宜上宣言と呼ぶ)

この宣言には多くの点で共感できるし、同意できるところもある。とりわけたたかいをイデオロギーや社会プランによって彼岸化せず、ただちにひとりからでも始められる(それが蜂起と名付けられている)と主張しているところや、たたかいは党派に預けるものではなく、それぞれの生き方を変えることから始まると主張しているところである。これらは私たちの考え方とほぼ重なっている。

しかし、既存の政治思想、政治党派、政治運動への絶望感が深いためか、オプティミズムではなく、ペシミズムがたたかいのばねになっている印象がある。それが宣言全体に影を落としていて、幾つか大きな違和感が残る。

一つは「蜂起」があくまでネットを舞台に構想されていて、現場でのたたかいは意図的に避けられている、いや関与しないとさえ主張されているように見えるところである。たとえばアノニマスの活動はネットが主戦場であることは明白であるし、「アラブの春」でもネット(SNS)が大きな力を持ったことは明らかであり、私たちもまたこれからネットを積極的に活用していくだろう。

しかし、たたかいが展開されるのは、そして権力との力関係(アレンジメント)の変化が起るのはあくまで現場である。ネットはそのたたかいを有利に進めるための武器(権力も武器として使うだろう)であったとしても目的ではない。目的と手段を違えてはならないだろう。

たとえばレイシストにいくらネットで反撃しても、かれらの街頭デモは現場でしか阻止できない。それはたたかいのイロハのイだ。確かに宣言に書かれているように「たたかいはデモや投石に限られるわけではない」。しかし、ネット上のたたかいは(ハッキングをたたかいの主な方法としているアノニマス運動は別にしても)主戦場ではありえない。ちなみにそのアノニマスも時に街頭に出ている。

二つめの違和感は、「蜂起=生き方を変えること=政治」と三つのエレメントがあまりに単純に等号で結びつけられている結果、なんでも蜂起や政治になってしまい、権力とのたたかいがあいまいにされ、霧散しかねないところである。

たとえばブラック企業で働いている場合、その専制的コントロールから自らを解放するために行動すること(退社する、あるいはサービス残業や人としての尊厳を無視した業務命令を拒否する)自体は生き方を変えることであり、蜂起と名付けてもいいほど勇気のいることである。

しかし、そのブラック企業の専制支配をどうストップさせるのかという問題は残ったままだ。自分だけの解放=蜂起で完結するのだろうか。いやもっと言えば、そもそも完結させるべきだろうか。私たちは自己愛と同時に他者に対する「同情=共感」の感情を持っていて、蜂起した個人はかならず同じ状況に置かれたままの仲間への同情から彼らに手を差し伸べ、ともにたたかいたいという欲望にとらえられるはずだ。

だから、あらやる可能な方法を使い、企業外の人びととも連携しながらブラック企業に専制支配を断念させ、そこで働く人たちが人として誇りと自由を回復するまで彼らを追い込んでいくことが目標になるだろう。個人からはじめる蜂起はそこまで拡大させていかなければ成果をあげたとは言えないだろう。

また蜂起=生き方の等式によって、たとえば芸術表現(アート)も「蜂起」であると主張されているが、ここでも権力をめぐるたたかいの独自性があいまいにされてしまう。

すぐれた芸術表現で人がうける感動(そしてそれによって自分が変わっていくこと)と、権力とのたたかいで人としての尊厳(誇りと自由)を回復した時の喜びは、私たちにとってどちらも不可決であるが、互いに次元が異なったものだ。両者を同一平面に置くことで、結果として権力とのたたかいは召還されてしまうだろう。また優れたアートは何か特定の目的を意図した予定調和的なモチーフでは成立しない。

三つめの違和感は、生き方=政治という観点から、左右の政治的立場のどちらにも加担しないという姿勢がありえるかのような錯覚に陥っているところである。これは「レイシズムを煽る在特会にも理解できるところがあり、ただ批判すればいいというものではない」という主張によく現れている。

在特会の多くのメンバーが社会への帰属意識を持てず、その結果、日本人であることという民族的属性に最後のよりどころを求めざるをえず、レイシズム運動に他者との同一化を求めようとしていることは、確かに理解すべきことである。しかし、それを理解することと、彼らが在日韓国人、朝鮮人の人としての尊厳を傷つけ言動を許容することは別であるし、ここでは政治的にどちらでもないという「中立」的立場(いわゆる『どっちもどっち論』だ)はありえない。彼らの言動を止めさせるか、(動機はどうであれ)見過ごすかである。

名無し委員会は絶望的な状況に置かれている(とりわけ若い)人びとに「たたかいは可能だし、今すぐ、あなた一人から始められる。蜂起はあなたの生き方を変えることなのだ」と呼びかけている。この呼びかけに勇気を与えられる人たちは出てくるだろう。それは大いに歓迎したい。しかし残念なのは、それがただ呼びかけだけにとどまっているところだ。

私たちが感じる違和感の根底には名無し委員会のこの「禁欲的」姿勢、あるいは政治の世界にまみれ、党派争いに巻き込まれることへの嫌悪があるのだろう。それは理解できることである。しかし、新しい動きもあちこちで始まっている。今後委員会が批判的であるように見える「文化左翼」的水準をほんとうに超えて、ネットの世界だけでなく、たたかいの現場にも現れることを期待したい。

とはいえ、私たちの違和感なども百も承知の上で、あえて宣言文が書かれていることも充分ありえる。それだけ委員会の政治に対する絶望感が深いのであろうし、実際、それには歴史的に根拠があると言わざるをえない。冷戦以降の資本主義の全面化、グローバリズムの急速な進展、社会格差の拡大と、この社会変化とパラレルの関係にあった左翼の壊滅状態、文化左翼の跋扈、労働組会の体制翼賛化などなど。だから私たちの異論は、これからのたたかいの中で提起していくしかないだろう。

近い将来、多くの名無したちともにたたかえることを願っている。

04.2013