『ノート』や『スタイル』に共感していただき、ノードの一人として活動してみたいと思われても、実際の活動はどうなるのか想像しにくいところがあると思います。

それでも最低限考えられること、実行できることは幾つかあります。

まず今、「義憤を感じている(また強く共感する)」争点があるとすれば、そのたたかいの中に飛び込むことだと思います。それは原発問題、憲法改悪、TPP、レイシズム、ブラック企業や貧困問題、司法の腐敗かも知れませんし、あるいは反/禁原発を掲げる地方/中央の議員を応援することかも知れません。

まずその「現場」に足を運んでみてください。それが集会やデモ、企業や国や自治体との集団交渉であれ、あるいはそのための会議や勉強会であれ、かならず何がしかの発見や学びがあると思います。最初は離れて見ているだけでもいいと思います。

つぎにその経験(とそこで学んだこと)をなんらかの方法で他の人々に伝えることだと思います。今では、ツイッター、ブログ、あるいはファイスブックなどネット上のツールををそのために簡単に使うことができます。(つい先頃Edward Snowdenが暴露したアメリカ国家の秘密活動を考えると、これからのネットの利用には幾つか注意が必要ですが)

とはいえ、これまで実際にたたかいに参加したことがなければ、この一歩さえなかなか勇気がいることです。しかし「匿名の単独者」として始めることで最初の一歩のハードルは多少は低くなるでしょうし、いったんたたかいの中に飛び込んでみると、頭の中で想像していたよりも厳しいことは少なく、むしろ楽しいことの方が多いことが分かってきます。

この楽しさは何事にも代え難いものです。というのは、楽しさは自分の人間としての「誇りや自由」を取り戻すことから来ているからです。生命の次に大事なものは、実はこの「誇りや自由」ではなかったでしょうか。たとえばブラック企業とのたたかいはまさにこの「誇りや自由」を取り戻すたたかいに他なりません。

そして次のステップとして、ご自分の経験と思いをもって他のノードたちとわかちあうことです。たとえば、そのための一つの場としてこのサイトがあります。私たちは『スタイル』に掲げているように、党派や政治グループではありません。交流と協力を目的として「互いに対等なノードとして、ボスを持たず、暫定的で、出入り自由」な場です。アノニマスが互いの協力関係をStand Alone Complexと形容していますが、この言葉はノードたちの運動にもあてはまります。

ノードは「匿名の単独者」として活動しますが、しかし決して個人主義ではありません。『ノート』でも書いていますが、私たちはもはや主体という神話を信じていませんし、「他者との集合的な(たたかいの)経験」を共有することで自分たちが「変身」していくことを積極的に肯定します。そして、他者の経験や考え方にオープンであってこそ、たたかいの新しい展開、新しい思想の生産も可能になると考えます。

以上は主にこれから活動を始めてみようと考えている皆さんへの呼びかけですが、呼びかけたいもう一群の人たちがいます。それは、過去になんらかの政治・社会運動に主体的に参加した経験を持ちながら、苦い体験をして、その運動から離れた人たちです。

苦い体験はそれこそ千差万別でしょうが、しかし、その中でも最も多いものは大別すれば二つあるのではないかと思います。一つは、その時点で行動の原理としていた理念に疑いが生まれたケースです。たとえば典型的には左でいえばマルクス主義、共産主義への疑念です。右でいえば、反共親米民族主義でしょうか。あるいはもっと近い時期でえば、リバタリアニズムやコミュタリア二ズムの場合もあるかも知れません。私自身そうでしたし、これは避けられないことです。しかしだからと言って(かって信じていた理念は既に精算されているとしても)お互いにそもそも政治・社会運動にかかわった動機まで無くしてしまっているわけではないと思います。それは政治的、社会的不正義に対する「義憤」であり、虐げられている人びとに対する「シンパシー」だったはずです。そして、この間、私たちが目撃している原発事故、レイシズム、自公独裁体制の成立、憲法改正の動き、ファシズムの萌芽の誕生などによって、その思い(情念)が私たちの内部から引き出される体験をされているのではないでしょうか。もしそうであれば、もはや理念を掲げてではなく、ただ眼前のたたかいに、争点ごとに単独者として参加することを呼びかけたいのです。

極端にいえば、今要請されている(自分を含む)人の尊厳と自由を守るたたかいに理念は関係ないのです。

二つ目は党派(活動)への幻滅です。党派は何らかの理念を体現しているものですから、上にあげた理念への疑念は当然党派へのアパシーを生むわけですが、ここではもっと狭い意味で、理念を問わず党派活動そのものに対して絶望、幻滅したケースです。党派がなぜ抑圧者となるか(従って、党派への幻滅は避けられない)ことは『ノート』でも書いていますのでここでは省略します。が、この場合でも一つ目と同様、政治・社会運動にかかわった動機まで無くしてしまっているわけではないと思います。もしあなたがそうであったら、目前のたたかいにどこまでも単独者として参加し、党派的発想から決別したノードとしての活動を提案したいと思うのです。

党派の人びとを否定はしませんし、またそれは不可能なことです。しかし、私たちが党派を組むことは絶対にないし、たたかう人びと同様に、自分の誇りと自由を手放すことはしません。そうでなければ、ほんとうに人びとと共にたたかうことも出来ないと私たちは考えます。

気負うことなく、自分なりのやり方で、たたかえるところから、ノードたちの戦線へ!