先月11月から今月12月にかけてれいわ新選組をとりまく情勢が大きく動いている。「桜を見る会」問題で、モリトモカケ問題以上にアベ政権が追い詰められ、解散総選挙が近づいていると予測されていることが背景にある。

12月に入って、立憲枝野氏が、これまでの独自路線を軌道修正し、オフィシャルに国民、社民に野党共闘を呼びかけた。だが、この呼びかけが、立憲への合流なのか、新党結成なのかはっきりせず、曖昧なままである。裏ではさまざまなやり取りがあるのだろうが、アベ政権打倒が日程に登りつつ現在の局面で、明確な提案をもつ呼びかけでないと、かえって野党勢力のバラバラぶりを晒すだけで逆効果である。このことを枝野氏をはじめ立憲幹部が見えていないとすれば、野党第一党としての指導力が問われてもやむをえないだろう。

立憲の低迷ぶりは、小沢氏が野党新党構想で、枝野、玉置両氏と会談を重ねたものの、その努力がまだ身を結んでいないことを示している。

先のポスト『政局床屋談義』で、小沢、鳩山、山本各氏と共産は、暗黙の野党政権構想で繋がっているのではないかと推測したが、この推測が私の想像以下の弱いものだと訂正しなければならないようだ。

この件では、れいわ陣営の選挙参謀と目されている斎藤まさし氏が、反アベを打ち出しはじめた右翼youtube番組「チャンネルさくら」の水島との対談の中で、「れいわに全面的に関わってないし、小沢、鳩山両氏とも共闘話をしている事実もなく、お互いの結びつきはないに等しい」と発言していることとも符合する。もちろん斎藤氏が右翼番組で本当のことをしゃべるわけがないとしても、さほど実態とかけ離れてはいないと思われる。

「暗黙の野党政権構想」が想像以下の弱いものだとすると、強いことを前提に『一つの疑念』で考えた「れいわ触媒政党論」は誤りだったことになる。

この誤りは、12月に入って、上で述べた枝野氏の野党への提案の後、山本太郎氏が各地の街宣で「100人の候補者を立てるれいわ独自路線」を改めて強調しはじめたことによっても示されていると考える。つまり独自路線はブラフではなく、本気だということである。

だとすると、れいわ新選組が一般的な党組織を持たないことは、『一つの疑念』で触れたように、新しい組織構想に基づくものということになる。こう考え直し始めた頃に、れいわの参院選候補者だった安冨歩氏が自身のブログでれいわの組織論についてコメントした(『れいわ新選組の組織論』)。もちろん氏のコメントは「れいわ触媒政党論」をとらず、正面から「なぜれいわは党組織を持とうとしないのか?」という疑問に向き合ったものだ。

そこで氏は、次のように述べている。

「私には(山本太郎が引き起こした)この波に乗って誰も見たことない選挙をやり、『子どもを守る』を政治の原則とすべきだ、という考えを人々に伝える、という目標があり、その実現のために、この機会を利用させていただいた」

「つまり、山本太郎は、山本太郎で、自分の好きなように動くから、あなたも自分の好きなように動いてください、ということなのである」

「このようなコミュニケーションの連鎖を引き起こすことが、れいわ新選組の『組織論』なのだ、と私は考えている。そこには、中心も境界もない、因果縁起の広がりゆく網の目が展開しているだけである。もちろん、今のところは、山本太郎という巨大な中心が聳え立っており、そこに集まるエネルギーと、そこから発するエネルギーが圧倒的であるが、その構造がいつまでも続くようであれば、れいわ新選組は失敗なのである」

この安冨氏の考え方が山本太郎氏のそれとぴったり重なっているかどうかは確かではないし、たぶんズレがあるだろう。しかし、それが問題ではなく、氏の考え方に同意できるかどうかが論点である。氏は、同時期にれいわの組織のありかた(政党としてカオス状態にあること)に対し、その弱点を克服する提案を行っていた(れいわ)黒幕連の研究猫ともさんを紹介して、ともさんの提案をまともなものと積極的に評価しながらも、こう述べる。

「(研究猫ともさんの提言にそって)これらの問題点を改善してしまえば、れいわ新選組のカオス的運動は、停止する。もちろん、そんなカオスで政権が取れるのか、と聞かれたら、私も、そりゃ普通は無理でしょうね、とお答えするしかない….しかしこのカオスであればこそ、ここまで来たのであり、今も全速力で山本太郎はカオス的に突き進んでいる。それを止めてしまえば、元も子もない」

私もこの安冨氏の考え方に賛同する。正直に言えば、私の中では、ほぼ研究猫ともさんと重なる考え方と、安冨氏の考え方が同居していたのである。研究猫ともさんの見解は決して間違っていない。しかしたとえ間違っていなくても、カオスを殺してしまうこともありえるという安冨氏の懸念を共有する。

要するに「おなじれいわの旗の下にあっても、山本太郎は山本太郎で動き、賛同者はそれぞれ独自に動く」ことがれいわ流の「組織論ならざる組織論」であり、その本質は「中心も境界もない、因果縁起の広がりゆく網の目が展開している」ものだということである。

だとすると、さまざまな多様な人びとがそれでも同じれいわの旗の下に集い、活動していくのは、れいわが掲げる「政策」への同意が唯一の紐帯ということになるだろう。考えてみると、「あることを実現するために集い、協力し、ともに闘う、しかしそれ以上に参加者に要求することはない」のは、もっとも自由で、潔い政治活動ではないだろうか。

12/11 2019